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1980年、『光華』は台湾の地方刊行物の先駆けとなった週刊「今日美濃」を紹介した。その創刊者の黄盛松さんは、美濃で最初に都会からUターンしてきた「帰省青年」で、彼の働きかけにより、林懐民が雲門舞集を率いて美濃で公演した時は大きな話題となった。
高雄の美濃という小さな町だが、話題に欠くことがない。早くも1970年代に、美食家の唐魯孫や、当時行政院長だった蒋経国が南部を訪れるたびに美濃粄條(米粉の麺)や豚足料理などを食し、その名を知らしめた。
最近も、美濃の水蓮(タイワンガガブタ)や、美濃出身の客家語バンド「生祥楽隊」などが注目されている。人々をひきつける美濃には、どのような物語があるのだろう。
冬の美濃は気候も穏やかだ。昼食の時間になり、私たちは繁盛している粄條の店に入った。
今回案内してくれるのは、美濃で地元の文化や歴史を研究する邱国源さんだ。美濃の初代「帰郷青年」である彼はもう70代だ。故郷のさまざまな事柄に携わっているため、かつて旗美商業工業高校の教師だった彼の肩書は多く、環境問題にも取り組んでいる。
邱国源さんは大学卒業後、よその土地での生活に適応できず、また家族が望んでいたため帰郷を決めた。若い頃は、地元に親しむためにできるだけ年配の人々とともに過ごし、故郷の物語を聞き取りながら40年にわたってフィールドワークを続けてきた。
家族の多くが飲食業に従事しているため「食歴」も豊富だ。簡単な一食でも、汁なしの粄條、豚頭皮の煮物、ピーナッツ豆腐、豚の歯肉のスープなどを注文する。どれも地元の人々が日常的に食べているもので、邱さんは一つひとつ丁寧に説明してくれる。
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ブタの歯肉のスープ
客家の大根の保存食
冬は野菜の生長が遅いが、そのぶん甘みを増す。美濃の街を歩くと、多くの家がベランダで野菜を天日干ししている。この時期の旬の野菜は白玉蘿蔔という大根である。百年近く前に日本から導入された品種ということで、小ぶりだが皮が薄くて甘みがあり、生でも漬物にしてもおいしいという。
邱国源さんの案内で、私たちは米粉の麺を出す「水圳粄條」の経営者の鍾仁振さんを訪ねた。彼のもう一つの仕事は客家の大根漬けを研究し、推進することである。
古い家屋の空き地には一面に大根が干してある。漬ける工程は終わっていないが、しわになった大根からはすでにいい匂いが漂ってくる。だが鍾仁振さんによると、これはまだ半製品で、祖母が漬けた「臭風蘿蔔」とは比べ物にならないと言う。「あの甘味と旨味は、一口かじっただけでお粥が一杯食べられるほどです」と言う。
鍾仁振さんは、家に伝わってきた古い漬け方を改良した。収穫した大根の葉の部分と下のひげ根を残し、大根600グラムに塩75グラムという比率で軽く揉み、桶に入れて重石をする。1週間おいてから取り出して半月ほど天日に干す。大根にまだ軟らかさが残っていて、細かい塩の結晶が出てきたころに取り入れて密閉保存する。だが、この時点ではまだ「老蘿蔔(古漬け)」とは言えない。「これを3年寝かせてこそ、本物の老蘿蔔と呼べるのです」と鍾仁振は言う。
大根は栄養豊富で地下人参とも呼ばれる。客家の人々は穏やかな味わいの老蘿蔔を栄養価の高い食材として珍重し、骨付きの豚肉や鶏肉と一緒にスープにする。また、天日干しした大根葉(美濃の人々は「蘿蔔苗」と呼ぶ)も料理に使ったり、お茶にしたりする。これは咳や喉の痛みに効くとされている。
最近は日本の浅漬けの影響で、酢や砂糖を使った漬物が流行しているが、邱国源さんによると、昔の農業社会では砂糖も酢もなかなか手に入らなかった。浅漬けの大根もおいしいが、さっぱりしているのですぐに食べきってしまう。老蘿蔔こそ客家の精神を象徴しているのである。
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美濃の町を代表するランドマークの東門楼。
塩は客家人の血液
客家料理は塩味が濃く、ご飯が進むと言われており、その香りも食欲をそそる。だが邱国源さんは、こうした食習慣は客家の生活史において、二つの面を表しているという。
美濃は昔は「彌濃」と呼ばれ、清の乾隆年間の1736年に開拓がはじまり、すでに300年の歴史がある。当初からある「開基伯公」の横に立つ「彌濃庄開基碑文」には、先人たちは「斧をもって荒野を開き、蔓茎を除き、先人の恩沢を承り、残山剰水に就くを宗と為す」と刻まれており、当時の生活の苦しさが伝わってくる。
客家料理は塩辛いだけでなく、漬物が多いことでも知られている。戦いや移住を余儀なくされてきた客家の人々の歴史が食文化に刻まれているのである。食べ物が尽きることを恐れた先人たちは、余剰の食材を保存し、塩味を濃くして少しずつ食べてきたのである。
「塩は客家人の血液です」と邱国源さんは言い、客家の民家で作られている塩漬けの保存食を挙げていく。豆豉(トウチ、黒豆を発酵させたもの)、大根、キャベツ、パイナップル、タケノコ、冬瓜、タロイモ、破布子(カキバチシャノキの実)などだ。年配の美濃の人々にとって、これらの塩漬け食材は生きるためのものであり、安心感が得られるものなのである。
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今では台湾中で食べられている水蓮菜。和え物や揚げ物などさまざまな食べ方があるが、美濃の人々は客家豆醤(発酵大豆)で炒めることが多く、素朴な味わいが際立つ。
全台湾で人気の水蓮菜
客家の人々は、苦しい条件の中でたくましく生き、山から糧を得て生きくる間に、現地ならではの天然の食材を少なからず発掘してきた。例えば福菜(カラシナの漬物)、ナガボノウルシ、そして今や全台湾で人気のある野蓮(水蓮菜、タイワンガガブタ)などである。
美濃湖に自生する「野蓮」は一般には水蓮菜と呼ばれ、シャキシャキとしてさっぱりした野菜だ。台湾各地のレストランで供されるだけでなく、スーパーでも売られており、すでに台湾の一般家庭に根付いている。だが、美濃では以前は貧しい家庭だけが食べる野の草だった。
最初に水蓮菜の栽培を始めた人は「野蓮爺爺」と呼ばれる鍾華振さんだ。かつての苦しい暮らしを乗り越え、今はもう80代の彼は客家の山歌を見事に歌える数少ない一人である。その話によると、子供の頃、食事の足しにしようと、首に竹筒を縛り付けて浮きにし、湖に潜って野蓮を採ったと言う。現在の栽培された水蓮菜は長さ1メートルほどに揃っているが、当時の野蓮の長さは水の深さによって8~10メートルになり、割り箸ほどの太さのものもあったと言う。
しかし、美濃湖の水は一度は養豚の廃水で汚染されてしまい、野蓮は消滅してしまった。鍾華振さんは、大人になってから偶然に湖畔で野蓮の苗を見つけ、それを自分の田んぼに植えてみた。すると「野蓮」が「水蓮」に変わったのだと言う。葉が開くと、その茎は歯ごたえが良くておいしく、現地で普及するだけでなく、他所の町からも多くの人がわざわざ食べに来るようになった。そうして口コミが広がり、美濃にとってタバコの葉以来の重要な作物となったのである。
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都会から美濃にUターンした初代「帰郷青年」の邱国源さん。故郷の文化や歴史を研究して40年になり、今は70代だ。
故郷に根を張る力強さ
美濃の文化の象徴は、時代とともに変わってきた。清の時代に建てられた東門楼や敬字亭などの古跡から、客家の粄條や美濃油紙傘などのイメージへ、そして作家の鍾理和や鍾鉄民、客家バンドの生祥楽隊などの文化へと移ってきた。
こうしたことからも、美濃という小さな町には文化的な魅力が満ちているだけでなく、強い生命力があることがうかがえる。地理的にも交通面でも、余所との行き来が不便で、茶頂山や月光山などの障壁があり、また荖濃渓に隔てられていることから、ここの文化は完全な形で残っているという人もいる。しかし、この保守的な客家の町は、環境保護運動や町づくりなどにおいても先駆けとなる行動を採ってきたのである。
したがって、美濃の文化が保存されてきたのは、地理的に余所と隔絶されてきたからと言うより、客家の精神が受け継がれ、実践されてきたからと考えるべきではないだろうか。物質面でいかに生活が苦しくても、人々は勤勉に働き、生きてきた。その精神が今では故郷に対する強いアイデンティティとなり、自分の理念を軽々しくあきらめない強い意志となっている。
美濃を後にする前に、私たちは地元の人々が「伯公廟」と呼ぶ伯公溝福徳祠の傍らで開かれた屋外の宴に参加した。邱国源さんがホストとなり、『今日美濃』創刊者の黄森松さん、美濃農村田野学会の温仲良理事長ら地元の人々が集まっていた。
それぞれ年齢の差はあるが、いずれも都会から美濃へ自分の意思で戻ってきた人ばかりで、美濃の事柄について、熱い議論が戦わされ、それぞれに明確な意見を持っている。
にぎやかな宴の席で、作家・鍾理和の「故郷の血は、故郷に帰らなければ沸騰を止めない」という心からの叫びが少し理解できたような気がした。これはまさに故郷に根を下ろしたいという渇望、そして自分の故郷に対するアイデンティティなのである。それがさまざまな世代の美濃の人々を突き動かし、華やかな都会での暮らしを捨て、故郷の大地を地道に耕したいと思わせるのだ。
彼らは美濃という小さな町の基礎を豊かなものにし、また新たなものを生む活力をもたらしている。それは客家のおばあさんが大切にしている大根の古漬けのように、歳月を経ても鮮やかな甘みと旨味を感じさせるものなのである。
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客家の人々は米粉の麺をよく食べる。写真は最も典型的な粄條。閩南人はこれを「粿仔」、地元の人々は「面帕粄」と呼び、スープを入れたものと汁なしの2種類がある。
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ピーナッツ豆腐
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客家の漬物文化を誇りとする鍾仁振さん。
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小ぶりの大根「白玉蘿蔔」は時間をかけて塩漬けにすることで貴重な漬物となる。
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日本統治時代に整備された獅子頭用水路は田畑の灌漑に用いられるだけでなく、夏は子供たちの遊び場にもなる。
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美濃の人々にとって、油紙傘は日用品であるだけでなく、伝統文化を伝える重要な工芸品でもある。
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美濃の山麓にある鍾理和記念館には、作家・鍾理和の日用品や日記、手稿などが展示されている。
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「野蓮爺爺」と呼ばれる鍾華新さん。後ろは初めて野蓮(水蓮菜、タイワンガガブタ)を植えた池。
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異なる世代の「帰郷青年」。左から、温仲良さん、邱国源さん、黄森松さん。
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山と水に面した美濃は、素晴らしい物語をたくさん生み出してきた。