ゆっくりと老官路を歩けば、周囲の林や樹木との対話が楽しめる。
幼い頃の記憶では、祖母のコートからはいつもうっすらと樟脳のにおいが漂っていた。それは、普段は着ない「よそいき」の服で、ずっとしまわれていた衣類の証拠だった。この香りは、かつて台湾が樟脳王国であった時代につながる。
百年前の苗栗の大湖に、茶や樟脳などの物資を運ぶ「老官路」という山道があった。全国の優れた教師に与えられる師鐸賞に輝いたこともある彭宏源は、この「老官路」を探し当て、その再現に貢献した人物だ。今は古道の草を刈って整備したり、ガイドを務めるなどして、その歴史を伝えることに情熱を注ぐ。
21世紀、台湾のTSMCが作るチップは、世界中が必要とする重要なものとなり、同社は台湾の「護国神山」と呼ばれるが、19世紀の台湾では、茶、蔗糖、樟脳が重要な産物で、世界への三大輸出品であった。これらは台湾に多くの外貨をもたらしたことから「台湾三宝」とも呼ばれ、まさに当時の「護国神山」だった。
中興大学森林学科を定年退職した馮豊隆教授によれば、樟脳の原料となるクスノキは、樹皮に深い縦方向の割れ目があり、木全体が樟脳のような香りを放つ。樟脳を抽出できるほか、虫の駆除剤や薬剤、建材、彫刻の材料にも使われる。百年前には台湾の低い山に広く分布しており、無煙火薬やセルロイド、フィルムなどが発明されたことによって、それらの原料の一つである樟脳の需要が高まったため、台湾は半世紀にわたって「樟脳王国」の名を世界にとどろかせた。後に化学合成の樟脳が登場したことで天然樟脳産業は次第に衰退したが、今でもクスノキは低山地帯の山道沿いでよく見かける。
中央研究院近代研究所で非常勤研究員を務める林満紅は著作『茶、糖、樟脳業與台湾之社会経済変遷』の中で次のように述べている。「当時の台湾では、茶樹は新北の石門から彰化までの丘陵地に多く分布し、クスノキは宜蘭から嘉義にかけて山奥に分布していた。茶や樟脳は、天秤棒で担いだり、いかだに載せて山から港まで運んで輸出されていった。経済的価値の高い茶樹やクスノキを多く植樹したことが、台湾の山間地開発の一大契機となった」
台湾の品種「宝島甘露梨」。大きくてジューシーな梨は贈答品として人気がある。
古道「樟之細路」
かつて茶や樟脳の運ばれた道が、近年、行政院客家委員会や台湾千里歩道協会などによる官民の協力で再び整備されている。かつての山道は、農道や現在の産業道路と結びつき、桃園、新竹、苗栗、台中にまたがる全380キロの「樟之細路」を形成しており、これは台湾七大古道のうちの1本でもある。こうした努力によって、百年前の「樟脳王国」「茶業王者」と名を馳せた時代に光が当てられるようになったほか、2019年には韓国済州島翰林港の長距離トレイル「済州オレル」との間に友好トレイル協定が締結されており、また2022年12月には第4回アジア‧トレイルズ‧カンファレンスも台湾で開催された。ほかにも客家委員会の委託によってAXNチャンネルが制作した『樟之細路的秘密』など、古道を紹介する番組も放映されている。
百年前の茶や樟脳の産地は多くが客家の村に集中していた。台湾師範大学歴史学科の呉文星‧名誉教授によれば、大陸で丘陵地に暮らしていた客家の人々は台湾に移ってからも同様の場所に村を作ったため、地理的条件から茶や樟脳を生産するようになった。また移民が増加するにつれて山間地帯の開発を広げたため、原住民とも衝突を生じるようになった。
客家委員会は「樟之細路」内の7区間の古道をそれぞれの客家の村に残る茶や樟脳関連の歴史的スポットと組み合わせ、合計6本の観光ルートとして打ち出した。つまり、桃園の小粗坑古道、新竹の渡南と飛鳳、石峎古道、苗栗の鳴鳳、老官路(老官道)、出関古道の6ルートで、難易度によって「親子向き」「挑戦」「健脚」の3段階にレベル分けされている。
渡南古道を歩けば、日本統治時代に植樹された大葉種アッサム茶の木が見られるし、台紅茶業文化館(関西台湾紅茶公司)や、伝統の三合院造りで建てられた「羅屋書院」に寄ってもいい。ほかにも石峎古道には、テレビドラマ『茶金』のロケが行われた洋館「姜阿新洋楼」がある。古道から客家の村に足を延ばせば、粄條(米粉の平打ち麺)や水晶餃子など、客家のB級グルメや創作料理も楽しめる。
伯公祠について説明する彭宏源。
森や木が主役の老官路
大湖の老官路は、省道「台3線」133.6~141.1キロ区間の東側を並行して走る稜線沿いの道で、かつてはやはり樟脳や茶、生活物資などを運ぶ山道だった。全長9.2キロほどあり、上述の観光ルート6本のうち最も長い。稜線から東側を眺めれば、「台湾小百岳」(都市近郊のお薦め100岳)の一つであり、タイヤル族の聖山でもある馬拉邦山や、大克山などが並び、西側には標高889メートルの関刀山もそびえるなど、さまざまな山の姿が楽しめる古道だ。都会の喧騒を離れ、森林や竹林、果樹園の静けさの中、歩みを進めることができる。歩き疲れた場合は、途中いつでも道を折れれば、すぐ台3線に出られる。
国立苗栗高級農工職業学校森林科で学科主任を務めていた彭宏源は、2009年に全国POWER教師賞を受賞、2010年には教育部(教育省)から師鐸賞を授与された。そんなおり、自分の村の伯公(土地神)廟の調査に加わったのをきっかけに、大湖全域の調査に関わるようになり、関係書籍も共著で出版した。おりしも定年退職後に、客家委員会による「樟之細路」プロジェクトが始まり、彼は当然のごとく、その考証作業に加わることにした。
「樟之細道」の沿線では本格的な客家料理が味わえる。写真は客家の擂茶の材料。(KC Global Media AXN Asia提供)
大湖の豊かな歴史を
「老官路は幼い頃によく歩いたものですが、それから数十年たち、道の場所もわからなくなっていました」彭宏源は、2名の同伴者とともにまず最初に行なった道探しについて語ってくれた。「3人それぞれ鎌を手に、南湖の入り口から目の前の草木を刈りながら半日かけて分け入りましたが、それでも見つかりませんでした」古道の発見が極めて困難な挑戦であることは明らかだった。その後、水土保持局の測量スタッフが17日間もかけてやっと古道の位置を突き止めた。最後の手作業によるトレイル補修作業にも、彭宏源は再び加わっている。
老官路の歴史を彭宏源が説明してくれた。地元で樟脳油精練を大きく手掛けていた呉定新と葉春霖という人物が、大湖から卓蘭に至る道の開通を1883年に政府に陳情したことに、この道の歴史は始まる。交通の必要性と、原住民との衝突に備えた防衛のための「隘勇路」の役割を持ち、それなりの規模のある道として拡張整備された。台3線より52年も早く作られたこの道は、防衛、通信、公務、商務、運送の役割を一身に担っていたが、傍らに台3線が開通すると徐々に廃れ、やがて草木に覆われて自然に回帰してしまった。
豪雨の後、倒れた竹を鉈で刈りながら道を維持する彭宏源。
京都嵐山のような竹林
初秋の大雨が過ぎた後、彭宏源が『光華』取材チームを老官路に連れて行ってくれた。トレイルの北側入り口は、クスノキの幹に掛けられた「水頭福徳祠」という札が目印で、そこから坂を上っていく。道の脇には千年桐(アブラギリの仲間)の花が点々と散っており、台湾原生のタカサゴユリもタネをつけている様子があちこちに見える。古道のそばのイチゴ園では女性が一人で除草している姿があり、丘陵地の農村は車の往来もなく、静けさに包まれていた。
高く登るほど大自然の趣が濃くなり、水分をたっぷり吸った大地からはツル植物やススキなどが伸び放題になって道をふさいでいた。彭宏源がそれらを鎌で刈って道を作ってくれる。草や枝で手足が切れても彼は少しも気にしない様子で「いつものことですから」と言う。
1キロほど進むと大きな竹林が現れた。そびえ立つ竹のこずえから木漏れ日が射し、フィトンチッドたっぷりといった森林浴の清涼感に包まれ、身も心も洗われる。まるで京都嵐山の竹林を歩いているようだ。竹林を抜けると開けた場所に出た。眼下の渓谷にたたずむ農村には、きっと世の争いごととは隔たれた穏やかな暮らしがあるだろうと想像してみる。
この古道は草を踏みしめる柔らかな道で、上りや下り道では曲がりくねる木の根が階段代わりとなり、路面に枕木や石を埋めて歩きやすくしてくれている箇所もある。
渋みの後に甘味を感じる油柑。現在は自治体が栽培を推奨する苗栗県の特産品だ。
キョンの声に追い払われて
土壁の下地に竹を用いる伝統工法を、客家語で「併仔壁」と呼ぶが、山道の途中で併仔壁の廃屋に出くわした。住まいと豚小屋、牛小屋があったようだが、後ろの壁は破れており、隙間から中を覗こうとすると突然キョンが鋭い声で鳴いた。まるで招かれざる客を追い払うようなその声に、我々は慌てて表側に戻った。家の右前方に形の美しい老樹がある。そこから少し行ったところで足元をよく見れば、石造りの水路の遺構があるのに気づくだろう。
呉文星によれば、かつてクスノキの伐採のために漢人が山に分け入ったことで、原住民との衝突が頻発した。老官路沿いの義和村と魯林村の境界には、大正6年(1917年)設置の、警察の所轄を表す石の境界標が残っている。また栗林村と新開村にも、原住民との衝突などの史実を記した石碑がある。高所を制するために置かれた武器保管場所は今では展望台となっており、遠く関刀山や鯉魚潭ダムが見渡せる。
客家の村に行くなら、客家の信仰を集める伯公の廟や祠は必ず訪れたい場所だ。民家や大樹の下、路傍、あぜ道、岩(霊石)、祠、廟の中などに祀られ、いずれも芸術が感じられる。
山林には竹編みの下地に土壁を塗った「編竹夾泥牆」工法の小屋がある。
伯公廟で建築芸術を鑑賞
「合計238座の廟や祠、340体の伯公があります」これは、彭宏源が大湖地区全体を調査して得た数値だ。大湖郷大窩地区では「伯公遍路」ができる。老官路の北口から大寮村の大窩橋を渡ると、そこから約4キロ内に10座に及ぶ伯公廟がある。そのうち大寮村大窩12鄰にある伯公は、古い祠を鉄筋コンクリートの祠で覆ったもので、廟の中に祠がある形になっている。12鄰には現代アートのインスタレーションも置かれているが、その傍らにあるセンダン樹の伯公は石室の祠で、石屋根の四隅に反りがあり、供物台も石造りの素朴な祠だ。
大寮村の亀山福徳(伯公)祠は、やや派手な造りになっている。大きなガジュマルの木の下にある祠の中に伯公の位牌が祀られ、反り返った屋根や祠の扉にはレリーフが施されている。一般の廟に見られるような瓦や装飾をきちんと備えた屋根で、古式豊かな石板の供物台や、神を拝む際の膝置きも石造りだ。
三両三停駐車場から約1キロの範囲にはいくつかのスポットがある。客家語の有名な歌「客家本色」の作者である涂敏恒の旧宅、ほかにも伝統建築三合院の家屋や、近年設置された現代アートのインスタレーションを見て回ってもいい。陳履献などの開拓者たちが石を削って造り上げた幅60センチの灌漑用水路「穿龍圳」は、台湾でも数少ない保存状態のよい水路で、いにしえの開拓の苦労や知恵がしのばれる旧跡だ。
苗栗の大湖は農業の里であり、イチゴやナシの産地として知られる。近年は台湾原産のナシに接ぎ木して改良が盛んに行われている。例えば「宝島甘露梨」は人の顔ほどの大きさで、きめ細かな多汁の果肉を持つ。ちょうど中秋節の頃に収穫を迎えるので贈答品として人気があり、この小さな山村に豊かな実りをもたらしている。またお年寄りたちが農作の休憩時に口にする油柑も、自治体によって栽培が促進されている果物だ。
客家には「人が勤勉なら宝を生むが、人が怠惰なら草が生える」ということわざがある。老官路が修復された後も、「あの道を歩こうという人などいないでしょう」と言われたことがあり、彭宏源は心配している。歩く人が少なければ、古道は再び大自然に覆われ、姿を消してしまうかもしれない。それで彼はガイドをするかたわら、ボランティアで除草や道の補修も行い、愛する故郷に誠心誠意で客を迎えている。
客家の三合院の民家。
二度と自然に回帰せぬよう
「私にできることには限りがありますが、何もやらないよりはましでしょう」と彭宏源は言う。文化や歴史の調査も年月との競争だ。地元の人へのインタビューを数多くやってきたが、お年寄り訪問のペースを速めなければならないと感じている。生まれ育った土地への愛をエネルギーに、「一人チーム」であちこちを回り、老官路のいにしえの姿を浮き彫りにする。
踏む者のない道は自然に帰すること、また歴史は昔を懐かしむだけのものではないことを、森林科学専門の彼は熟知する。古道が再現された今、訪問客や故郷に戻る若者によってこの客家の村に再び繁栄が訪れることを彼は願ってやまない。
山林を出て開けた土地に出ると、遠い山と谷の集落が見渡せる。