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台湾をめぐる

テクノロジーで 大地の恵みに応える——

テクノロジーで 大地の恵みに応える——

稲作の達人 魏瑞廷と曾国旗

文・曾蘭淑  写真・林旻萱 翻訳・松本 幸子

9月 2020

(林旻萱撮影)

「勉学のできないものは、田畑で働け」と昔の農家の人はよく言ったものだ。若い世代を励まし戒める言葉である。そして若者たちは、田畑で働くようにはならないぞと奮い立ち、懸命に勉強して故郷を離れていった。

台東池上に暮らす魏瑞廷と、花蓮玉里の曽国旗もそうだった。しかし、自分の父親の世代が田植えやコメの販売などで数々の困難に見舞われているのを見て、彼らは故郷に戻り、家業を継いで重責を担う選択をした。

親の世代にはなかった精神力や、より専門的な知識を生かした努力によって、台湾を代表し得るコメを生み出そうとしている。

かつて故郷から離れていった農家出身の魏瑞廷だが、帰郷後はテクノロジーを活かして自分のコメを世界に売り出そうとしている。

農家の苦労

6月、台東池上では黄金の稲穂が実っていた。魏瑞廷は休日朝5時に起床する。夜露が渇けばコンバインを運転してイネを収穫するのだ。9ヘクタールの田は3日間で収穫が終わり、続いて乾燥、精米加工を行う。

季節は人を待ってくれない。夏至になれば再び種まき、立秋前に田植えとなる。林務局勤務の魏瑞廷は農繁期には毎日4~5時間の睡眠しかとれない。「精神力で続けているようなものです」額から流れる汗をぬぐおうともせず、38歳の魏瑞廷は喘ぎなら言った。「これだから農業は嫌だったのです」

親は農作で忙しく、学校で「家族で出かけた時のこと」を作文に書きなさいと言われても書くことがなかった。「同級生と一緒の時も、あそこでボロボロの服を着て働いているのが自分の父だとは言えませんでした」屏東科技大学森林科卒業後、宜蘭大学森林及自然資源研究所で修士号を取得したが、兵役が終っても故郷に戻りたくないので公務員になろうと大学の図書館に3ヵ月こもって勉強し、合格して林務局勤務となった。

2009年、国軍退除役官兵輔導委員会が有機稲作委託経営の入札を池上で初めて行った。ほかの農家が入札のことをよく知らず、最低制限価格の100万元より低く書いてしまったのに対し、魏瑞廷の父、魏其南は101万元と書いたおかげで16年間の経営権を落札した。こうして10ヘクタールに及ぶ雑草のはびこった土地を、貯蓄と借金で500万元かけて整地し、稲作開始となった。

苦労して1期目の稲を収穫したものの買い手がつかない。あちこち当たったが売れず、コメで名高い池上の有機米を、結局は半値近くで関山に売るしかなかった。しかも続く2期目の収穫には刈入れの人手が見つからない有様だった。

この経験で、父親は300万元でコンバインを購入した。どこにそんなお金があったのか。「農協からですよ!」と魏瑞廷は言う。農協のローンという意味だ。人手不足を補うため、父親はさらに田植機、トラクター、肥料散布機、そして運搬トラック、コンバインを載せる台車と買いそろえ、知らぬ間に借金は3000万元になっていた。

「稼いだ金がすべて農機具に化けてしまうのです。両親はいつもお金のことで言い争っていました」しかも「父は農業はできても販売はできません」と魏瑞廷は苦笑する。そんな父を放っておけず、彼は林務局に異動を願い出て、宜蘭羅東から実家に近い台東関山勤務となり、休日を利用して台北のファーマーズマーケットに米を運んで売った。5年にわたる市場通いの始まりだった。

1回目は60袋のうち6袋しか売れず、面目なさと心配もかけたくないので、すべて売れたと嘘をつき、自分で金を足して両親に渡した。また中興大学博士課程に在籍中だったのも断念し、休日ごとに20箱計400キロのコメを車に載せて台北に通った。一人っ子で実家を放っておけず、田植えには2時に起きて手伝いに行き、7時に大急ぎで着替えて出勤、休みにも施肥を手伝った。台北までの車の往復に疲れ果て、崖から大きな岩でも落ちてくれば一切を終わりにできるのにと思ったり、コメが売れなくて運転中に泣いたこともある。それでも帰宅すれば笑顔の息子を演じた。だが少なくとも借金は少しずつ返していけた。

「大自然を働かせよう」という有機農法。タカの凧を使って、イネをついばむ小鳥が来ないようにする。

ブロックチェーンで国際市場に

一生市場通いで終わると思われたが、2018年、彼は田に小さな気象観測装置を設置し、気象やイネの生長状況をブロックチェーンの技術を用いて記録し始めた。そのことで彼はフィナンシャル‧タイムズの取材も受け、「ブロックチェーンを駆使する世界初の農夫」として紹介された。こうして国際市場への販売ルートが開けていく。

魏瑞廷はスマホの画面を見せて説明してくれた。ブロックチェーンによる記録は改ざんできないので記録は忠実だという信頼性があり、これは食品生産履歴の保証にもなる。

「最初は香港の買い手がつき、次はカナダなどからでした。台湾の有機栽培認証は信用できないけれど、ブロックチェーンなら信用できると」魏瑞廷はブランド名「池上禾穀坊——米之谷」で、米アマゾンにも出品した。2キロ1袋が29.95米ドル(864元)という価格でも、池上のコメが買えるとアメリカやカナダの華僑は喜んだ。

2019年1月には「阿亀微気候」社との協力で田に太陽光発電のセンサーを設置し、雨量や温湿度の測定を始めた。それまでの施肥は父親の経験や感覚に頼っていたが、今では土壌の電気伝導度や温湿度を見て適切な水やりや施肥ができる。

ローマ教皇に贈ろう

彼のコメはハラール認証も受け、ドバイにも売る。「南カリフォルニアの買い手は田の生態状況も気にします。それで今年(2020年)の第1期から田にいる生物の記録も始めました。常客はヌマガエルやシュウダ、カタツムリ、時には野ウサギ、キョン、キジの足跡も見ます」

学識豊かな魏瑞廷は海外の文献も読む。「大自然を働かせよう」という有機農法を知って試してみた。タカやフクロウなどの猛禽類そっくりの凧や人形を置いて小鳥がイネを食べに来ないようにしたり、偽物のカモを水田に置いて本物のカモをおびき寄せ、水田にはびこるスクミリンゴガイを食べてもらったりしている。

2019年8月、日本の『ローマ法王に米を食べさせた男』という本に刺激され、バチカンにコメを贈ろうと考えた。駐バチカン大使の協力もあり、クラジェウスキー枢機卿との接見がかなってコメを渡すと「では、今日の教皇の昼食に召し上がっていただこう」と言ってもらえた。教皇からは魏瑞廷に「使徒的祝福」と十字架が贈られた。「1回の輸送費が5万元です。宣伝になるからではなく、『台湾は教皇のことを思っています』と伝えたいのです」と魏瑞廷は熱っぽく語る。

小型の気象観測装置でイネの生長状況を記録すれば、施肥や灌漑、病虫害予防の参考になる。

どちらの方ですか?

同じく家を10年以上離れていた曽国旗は、故郷の花蓮玉里鎮東豊里に戻った際、やはり1000万を超える負産を背負う身となった。だが建築学を学んだ彼は「規模の経済」の概念で逆境から抜け出し、全国最大の有機雑穀‧水稲の栽培地を作り上げた。

22年前、中壢にある建築事務所で働いていた曽国旗に電話が入った。父親が灌漑用水路工事の事故で生き埋めになったという。なんとか命はとりとめたものの半年は入院が必要とされた。

曽国旗の父、曽文珍は2007年の「神農奨」受賞者だ。1995年から1ヘクタールの土地で有機米栽培を開始、1998年には当時の農林庁による農村牧畜汚染防止政策を受け、循環型農業の理念に基づいて堆肥プラント建設に着手、また花東有機肥料協同組合を立ち上げるなど、様々なことに取り組み始めた矢先の事故だった。おりしも建築士資格試験に向けて準備中だった曽国旗だが、27歳で家業を継ぐことを決断した。

中学卒業後には花蓮玉里を離れていたので、近所の人はみな曽文珍にこんな息子がいることを知らなかった。しかも「私は有機米栽培をよく知らなかっただけでなく、有機米を食べている人も周りにおらず、父のやる堆肥プラントを『ウンチと奮闘する』ぐらいに考えていました」

故郷では次々と困難に見舞われた。最初は有機堆肥プラントだった。協同組合の出資者たちが有機堆肥作りは利益にならないと気づき、次々と資金を返せと言ってきたのである。人間関係を重んじる曽文珍は「農家が汗水流した金だから」と返却に応じたため、36人いた出資者のうち残ったのは6人だけだった。財務面での巨大なプレッシャーが曽国旗の肩にのしかかった。

次の問題は有機米の栽培と販売だった。農村では高齢化が進み、人手が不足していた。最初は父親のやり方を踏襲していたが、やり方を変えないと苦境から抜けられないと気づき、親の代がやらなかった新たな試みに着手した。機械化で人手不足を解消すること、そして規模の経済によって収入を増やすことだった。

大地にやさしい農業を行なえば、大自然は豊かな実りをもたらしてくれる。

「規模の経済」で有機栽培

父親の反対の下での変革だったので、曽国旗は成果を出して証明した。例えば、ほかの作物との二毛作を父親は拒否したが、雑草が悩みの有機栽培ではイネとほかの作物の二毛作にメリットがあり、台湾大学や中興大学の教授も奨励していると曽国旗は言う。すなわちイネとマメの二毛作だ。

水田に生息する雑草や昆虫は水がなくなると生きられず、畑の生物は水田を嫌う。やってみると本当に病虫害を防げただけでなく、雑草の問題も解決でき、彼の東豊拾穂農場は台湾初の広面積二毛作水田としてモデルエリアとなった。

目の前に広がる47ヘクタールの農地を指さし、彼はこう説明した。この土地は76戸の農家の土地を合わせたもので、それぞれの農家には大型農機具を購入する資金がない。それで彼と父親は協同組合を利用して契約栽培の面積を増やし、さらに花蓮農業改良場と協力して機械化によって生産高を増やす研究を進めた。また、農家が有機栽培への転換を図れるよう協同組合でサポートすることで有機農業面積を拡大していった。これによって「花蓮有機農産加工生産」協同組合は、元の7ヘクタールから130ヘクタールへと広がった。コメ以外に雑穀栽培も進めたので、政府の食糧自給政策に応じたものとなり、曽国旗は神農奨を2017年に受賞した。

ブロックチェーンで毎日の出荷を記録する。すべてにシリアルナンバーがついているため、偽物を防ぐこともできる。

台湾版コシヒカリを

2004年、曽国旗は組合の作る有機米や有機肥料、文旦などの農産物に、故郷の名を用いて「東豊」とブランド名をつけて売り出した。話し方のソフトな曽国旗だが、さらに優しげな口調で「慈心基金会を創設した日常老和尚さんのサポートに感謝しています。うちの有機米を買おうと言ってくださり、里仁有機商店での販売もかない、東豊米は軌道に乗りました」

建築学を学んだ曽国旗は、建設現場の工事計画のやり方を取り入れて生産や品質管理を行ったが、これが組合員の不満を招いた。特に台南13号の栽培を広めようとした際の反発は大きかった。それまでは各農家が好きなように農作業をしていたのが、慣れ親しんだ品種の栽培を続けることができず、組合の計画に従って田植えや施肥をしなければならない。決まり事に耐えられず、或いはこっそり化学肥料を使う農家も出たりして、次々と退出していき、30ヘクタールあった栽培面積は一度は7ヘクタールに落ち込んだ。

だが収穫すれば良し悪しは明白だった。価格も保証され、適切な時期の田植えや施肥でいもち病のリスクも減る。こうして契約農家は36戸に増え、花蓮豊浜や台東関山にまで広がった。

曽国旗は別の10ヘクタールの田で台南16号を栽培している。これは彼にとって最も台湾を代表し得る品種で、この品種を「繊細な美女」と彼は呼ぶ。生産高が少ないという欠点があったが、台南農業改良場の陳栄坤博士による改良と指導があって田植え時期を調整し、また有機肥料に詳しい曽国旗が栽培したことで、透明な良質のコメが実った。炊けば光沢のあるご飯粒はモチモチとして、日本のコシヒカリをしのぐほどだ。

曽国旗は2018年に農糧署による「コメの達人」選抜で全国有機米部門の3位に輝いた。良質米部門でも有機米部門でも3位以上はみな特殊な香りで勝負していたのに対し、彼のコメだけが香りでなく味わいで秀でていたのである。

「夢は世界で最も美味しい有機米を作ることです」曽国旗は故郷に戻り、農家としてのアイデンティティーとプライドを見つけたと言えよう。

ブロックチェーンで毎日の出荷を記録する。すべてにシリアルナンバーがついているため、偽物を防ぐこともできる。

帰省して農業を継いだ曾国旗は、イネとマメの二毛作で「規模」の壁を乗り越えた。

帰省して農業を継いだ曾国旗は、イネとマメの二毛作で「規模」の壁を乗り越えた。

曾国旗は協同組合を利用して有機農業の範囲を広げ、全国最大のイネ・雑穀有機栽培エリアを確立した。(東豊拾稲農場提供)

曾国旗は故郷の地名を冠して「東豊」ブランドを打ち立て、協同組合の雑穀やコメを販売している。

「花東有機農産加工生産協同組合」は、若者たちを故郷に呼び戻すことに成功した。

魏瑞廷は二度にわたってローマ教皇に米を贈り、そのお返しに使途的祝福と十字架を賜わった。