海からの恵み
海は広く、海水も絶えることがない。だが海塩を得るには天候や地理など多くの条件にかなう必要がある。そのため海塩の生産高は、世界のあらゆる塩の総生産高の4分の1に過ぎない。
大昔の台湾では海水を煮詰めて塩を作っていたので苦い塩だった。1661年に鄭成功がオランダを退けると、中国大陸からの塩の輸入が絶たれてしまったため、鄭氏政権の軍人、陳永華が1965年、現在の台南塩رL里の南端に塩田を作り、これが台湾塩田史の幕開けとなった。台南市の永華宮には、この塩田創始者が祀られている。
台湾の塩田には「瓦盤」と「土盤」の二つの形式がある。「瓦盤」とは壺や甕のかけらを敷き詰めた結晶池で海水を干すもので、一方、土や砂だけの結晶池が「土盤」だ。日本統治時代には戦争で塩の需要が高まり、魚の養殖場の多くが土盤塩田に作り替えられた。かつて台塩実業で製塩技術員として働いていた凃丁信によれば、瓦盤は熱が伝わりやすく水分蒸発が速いので、ピュアで細かな塩の結晶ができ、食用の塩が作れる。一方、土盤では、水分蒸発が遅く、結晶も荒く固くなるので一般に工業用塩として用いられる。
全盛期には嘉義から高雄までの地帯に布袋、北門、七股、台南、高雄と五つの製塩場があった。また、塩田の警備用に赤レンガやコンクリートで六角形のやぐらが21基も作られており、いかに塩が重要だったかがわかる。
重要さゆえに、かつては政府の専売品だった。台湾では清の時代、1726年に食塩専売制が始まり、日本統治時代になってしばらく廃止されていたが、1899年に再び専売制となった。国民政府が台湾に移って後の1952年には「台湾製塩総廠」が設立され、製塩業は国営事業となる。
台塩実業副総経理の陳世輝は「国防的に塩は重要な物資でした」と昔を振り返る。当時の台塩総廠の任務は、食塩と工業用塩を民間と軍に安全かつ安定して供給することだった。
台湾塩博物館には、製塩産業の歴史とかつての労働者の生活の様子が展示されている。