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台湾をめぐる

塩の結晶 台湾の製塩業の歩み

塩の結晶 台湾の製塩業の歩み

文・張瓊方  写真・林格立 翻訳・松本 幸子

10月 2016

台湾の塩田は2002年に全面的に廃止され、338年に及ぶ塩田での塩づくりは終わりを告げた。現在では少数の塩田が再開の試みを始めているが、かつて西南海岸一帯に広がっていた壮大な塩田の風景はもはや見られない。

では塩田が姿を消した今、普段私たちが食べている塩はいったいどこから来るのだろう。そんな疑問を抱く人は多いはずだ。そこで、台湾唯一の製塩企業である台塩実業を訪問し、台湾の製塩史をさぐってみた。

「もし塩がなかったら」と考えたことはないだろうか。さして目立つ存在ではないのに、味付けばかりか、味の引き締めにもなり、しかも一日たりとも欠かせない。塩化ナトリウムの結晶である塩は、生活になくてはならない大切な物質だ。

世界を見渡せば、海塩、湖塩、岩塩、地下塩などが作られているが、四方を海に囲まれた台湾はおのずと海から塩を得てきた。

台湾の西南海岸は天候や地理的条件から天日製塩に適した地域で、全盛期には五つの大規模な塩田があった。(布袋嘴文化協会提供)

海からの恵み

海は広く、海水も絶えることがない。だが海塩を得るには天候や地理など多くの条件にかなう必要がある。そのため海塩の生産高は、世界のあらゆる塩の総生産高の4分の1に過ぎない。

大昔の台湾では海水を煮詰めて塩を作っていたので苦い塩だった。1661年に鄭成功がオランダを退けると、中国大陸からの塩の輸入が絶たれてしまったため、鄭氏政権の軍人、陳永華が1965年、現在の台南塩رL里の南端に塩田を作り、これが台湾塩田史の幕開けとなった。台南市の永華宮には、この塩田創始者が祀られている。

台湾の塩田には「瓦盤」と「土盤」の二つの形式がある。「瓦盤」とは壺や甕のかけらを敷き詰めた結晶池で海水を干すもので、一方、土や砂だけの結晶池が「土盤」だ。日本統治時代には戦争で塩の需要が高まり、魚の養殖場の多くが土盤塩田に作り替えられた。かつて台塩実業で製塩技術員として働いていた丁信によれば、瓦盤は熱が伝わりやすく水分蒸発が速いので、ピュアで細かな塩の結晶ができ、食用の塩が作れる。一方、土盤では、水分蒸発が遅く、結晶も荒く固くなるので一般に工業用塩として用いられる。

全盛期には嘉義から高雄までの地帯に布袋、北門、七股、台南、高雄と五つの製塩場があった。また、塩田の警備用に赤レンガやコンクリートで六角形のやぐらが21基も作られており、いかに塩が重要だったかがわかる。

重要さゆえに、かつては政府の専売品だった。台湾では清の時代、1726年に食塩専売制が始まり、日本統治時代になってしばらく廃止されていたが、1899年に再び専売制となった。国民政府が台湾に移って後の1952年には「台湾製塩総廠」が設立され、製塩業は国営事業となる。

台塩実業副総経理の陳世輝は「国防的に塩は重要な物資でした」と昔を振り返る。当時の台塩総廠の任務は、食塩と工業用塩を民間と軍に安全かつ安定して供給することだった。

台湾塩博物館には、製塩産業の歴史とかつての労働者の生活の様子が展示されている。

天日干しからイオン濾過へ

世界的な経済自由化やグローバル化に伴って1980年代には製塩業の自由化は避けられないとの見方が強まり、国営事業であった台塩総廠は1995年に法人化、その後、段階式に「台塩実業公司」へと改編が進む。2002年には全面民営化され、専売制も廃止となり、272年に及んだ専売制の終結で、製塩法にも大きな変化が訪れた。

陳世輝はこう説明する。昔は天日干しで問題はなかったが、台湾が工業社会となり、工場排水による海水汚染の問題が出てきた。そこで1969年に台塩は日本を視察、1975年には苗栗通霄にイオン交換膜製塩法による製塩工場を建設する。

台塩実業通霄精塩廠の管理課長である林錫鴻によれば、工場を通霄に建てたのは、沿岸に大きな工場がなく汚染がないこと、大きな河口もないので海水中の塩分濃度が安定していること、交通の便が良い西部にあるので運輸コストが低く、人材も得やすいこと、などからだ。

通霄精塩廠が解決したのは、天日干しの悩みのタネ、天候の影響という問題だった。

前述した丁信は、現在、台南の北門井仔脚で塩田の復元に携わるが、「天日干しはお天道様にすがる毎日ですよ」と嘆く。天日干しでは、まず満ち潮時に海水を引き込み、日光と風に5日間さらす。3%だった塩分濃度が11%にまで増すと、小さな蒸発池に移して3日置き、25%になると次は結晶池に移す。天気が良ければ57日で結晶となり、その後1週間ほどで塩の完成だ。つまり20数日間も天日に干す必要があり、途中で大雨でも降れば、初めからやり直しになってしまう。

用途の多い塩は、台湾のホワイトゴールドと呼ばれている。

天候に左右されない

通霄精塩廠では、海水を引き入れてから白く透明な塩ができるまで、わずか810時間しかかからない。このイオン交換膜製塩法は、時間の短縮、生産量の安定だけでなく、農薬、重金属、環境ホルモン、可塑剤などの有害物質混入を防げ、より安全な食塩が作れると、陳世輝は言う。

林錫鴻の説明によれば、イオン交換膜製塩法とはイオン交換膜によって海水を濃縮して製塩する方法だ。直径1メートルのスチールパイプで、沖合1560メートル地点、深度12メートルの海水をくみ上げ、まず砂濾過で濁度を低めた後、イオン交換膜透析槽で、プラスとマイナスイオンの性質を利用してナトリウムイオンと塩化物イオンをこし取る。それを幾度か繰り返し、3%ほどだった海水塩度が21%にまで高まると、蒸発缶に入れて煮詰め、塩の結晶を作り出す。

こうして工場で作られた塩を、台湾では「化学塩」と呼ぶ人もいる。天日干しと区別するためだ。が、「実はどちらも海塩で、作り方が違うだけです」と陳世輝は言う。

それにイオン交換膜製塩法では、不純物や重金属だけでなく、マグネシウム、鉄、マンガンなども濾過できるので、それら微量元素を海に戻すことにもなる、と陳世輝は説明する。だが、ミネラル不足になってもいけないので、台塩実業では、海水中のミネラルを集め、それを塩の結晶に加えたものを「精緻海塩」として販売する。「近年は消費者の健康意識も高まり、精緻海塩は次第に従来の食塩を凌駕しつつあります」

苗栗県通霄製塩廠ではイオン交換膜製塩法で海水から製塩しており、これにより高い質と安定的な量産を維持している。(台塩実業提供)

ベストな媒介者

2004年に塩の輸入が解禁になると、世界各地の海塩や、ピンクソルト、竹塩など、多様な塩が市場に出回った。だがその一方、台湾人の健康は次第に危うくなっていた。2014年の政府衛生福利部の報告(20042013年に調査)によれば、尿検査の結果、多くの台湾人がヨウ素不足であることがわかった。ヨウ素不足は甲状腺肥大や神経系への悪影響を招く可能性があり、また、胎児の脳の発達にはヨウ素が必要なので、妊婦はとりわけ注意が必要だ。

実は塩は、ヨウ素摂取の媒介として健康に重要な役割を果たす。通霄精塩廠で食塩にヨウ素を加えたのは、甲状腺肥大を減らすという重要な政策の一つだったと、陳世輝は指摘する。

台塩実業では衛生福利部の方針に協力し、ヨウ素添加塩の宣伝に努めるほか、虫歯を少なくするためのフッ素添加に取り組んでいる。陳世輝はこう説明する。海外ではフッ素を水道水に混ぜるか食塩に加えるかの二つの方法があるが、水道水への添加は人々に選択の余地を与えない。政府の方針に沿って、台塩実業は今年末か来年初頭にはフッ素入り塩を発売する予定だ。

公共テレビ開局時の1995年のドラマ『塩田児女』は、塩田で働く人々の暮らしや、台南安順の瓦盤塩田の様子を描いていた。その7年後、コスト高や工業化の波、民営化推進などの事情から、台塩実業はオーストラリアからの工業用塩輸入に踏み切り、約6000ヘクタールの塩田は全て閉鎖、土地は国有財産局に返還し、わずかに七股塩山(塩田跡に高く積まれた塩の山)と周辺30ヘクタールの塩田跡を買い戻した。

戦備から観光へ

強い日差しが降り注ぐ中、作業員は結晶池で薄く一層に結晶した最上級の塩、「塩の花」をすくいとる。

台湾塩田史にとって七股塩山は保存価値があると陳世輝は言う。6階建ての高さに積まれた4万トンの塩は元は戦備用だった。「戦争になって通霄精塩廠が爆破された時のために、半年から8カ月分の塩を蓄えていました」その塩山も年月を経て、今や硬い殻に覆われたようになっている。

七股塩山は観光スポットにもなり、日に照り輝くさまは地元の八景に選ばれた。ただ、風雨や日差しによって塩が溶けたり、黒ずんでくるので、台塩実業は毎年数百万元かけて塩を足し、できるだけ白さを保つようにしている。

その七股塩山に登り、塩田跡を見下ろせば、かつて人々が懸命に海の恵みを得ようとしていた姿が眼前に浮かぶようである。

6〜7階建ての高さに積み上げられた戦備用の塩の山は、今では七股のランドマークである。その頂から周囲の閉鎖された塩田を見下ろせば感慨深いものがある。