画家ヨハネス・ヴィングブーンが描いた「大員(現在の台南安平)」の鳥観図。1650年代のゼーランジャ城(安平古堡)とその周辺の町が描かれており、現在はオーストリア国立図書館に収蔵されている。
1624年、オランダは大西洋のニューヨークに貿易拠点を設けた。同年、オランダ東インド会社は大員(現在の台南安平)から台湾に上陸し、以後38年にわたって台湾を支配した。これによって台湾の歴史は大きく動き始めたのでのである。
それから400年がたった今日、オランダの残した痕跡はまだ残っているのだろうか。
オランダの遺跡
東アジアの海洋史を研究する中央研究院台湾史研究所の副研究員・鄭維中はこう話す。「現在、最も完全な形で残っているのは実は淡水の紅毛城で、基礎の構造は良好です」。1626年、スペインが北台湾を占領し、基隆にサン・サルバドル城を築いた。その後、1642年にオランダ人がスペイン人を駆逐すると、オランダは損壊したサン・サルバドル城の建材を再利用のために淡水に運び、堅固なアントニー要塞を建設した。当時、漢人がオランダ人のことを紅毛番と呼んでいたことから今に至るまで「紅毛城」と呼ばれている。
一方、台南安平では、オランダがゼーランジャ城(安平古堡)を建設した。今は壁面や塀がいくつか残っているだけなのだが、当時は「ゼーランジャ城には重要な機能がありました。航海の目印だったのです」と鄭維中は説明する。これは当時ひとつのシンボルであり、「中国の東南部から海を渡ってきた人々が最初に目にしたのはゼーランジャ城だったのです」と言う。
地政学が形作った台湾
では、オランダ人はなぜ母国から遠く離れたこの小さな島へやってきたのだろう。主な理由は商業的利益である。1592~1598年、明と日本の戦役があり、そのため両国は交易を行なえなかった。しかし、中国は日本の銀を必要としており、一方、日本では中国の生糸と磁器の需要があったため、東アジアで第三地を経由した中継貿易が盛んになった。16世紀末、本国がスペインと戦争をしていたオランダは、経済的独立のために東方を目指し始めた。最初に、スパイスの生産が盛んなバンダ諸島を占領し、続いてバタヴィア(現在のジャカルタ)を支配して貿易競争に加わり、オランダとスペイン、ポルトガルによる東アジア海域での競争局面を迎えたのである。
こうした歴史的背景を説明したうえで、鄭維中は今度は地理的な角度から台湾の役割を説明する。台湾は世界でも数少ない高山を有する島嶼である。降水量が極端に集中し、河川が急峻なため、中西部の海岸には平坦な沖積平野が形成されており、河口の沖には砂州が形成されている。航海をする者なら、沿岸の砂州の周辺は浅瀬であることを知っており、大型船の停泊には適さないことがわかる。彼らは遠くからこの地形を見て、なるべく岸に近寄らないようにする。こうした条件から、長年にわたって台湾は外国人による上陸・開発が行なわれなかったのである。
オランダは中継貿易を展開し、明の東南沿海地域とスペインとの貿易を阻害するために澎湖を占領して拠点とした。しかし、当時澎湖は中国の領土だったため、オランダは台湾の大員に移ることにする。「オランダは地政学的にやむを得ず台湾を選ぶことになったのです」。大員に移ったところ、やはり港は使いにくいものだった。「台湾の多くの港は天然の不良港ですが、オランダ人はもともと不良港を使うのが得意だったのです。アムステルダムやロッテルダムなど世界に知ら得る大貿易港も、もともとの港としての条件は良くありませんから」と鄭維中は冗談交じりに語る。そしてオランダ人は大員にゼーランジャ城を築いて航海の目印とし、船を入港させるために水先案内人を置き、安全に荷物が交換できる基礎を築いた。そして台湾を主要な中継港としたオランダは、東アジア海域で貿易競争を展開し、それと同時に台湾はグローバルな貿易体系に取り込まれていったのである。
島の歴史の急展開
鄭維中は昨年(2023年)、『島嶼歴史超展開:17世紀東亜海域的人們与台湾(島の歴史の超展開:17世紀東アジア海域における人々と台湾)』を上梓した。タイトルの「超展開」という言葉は台湾の運命を形容していると言う。「『超展開』は日本語で、他の言語にはこれに相当する言葉が見つかりませんでした。これは、物事がまったく思いもしなかった方向へ発展することを意味し、台湾はまさにそうした状況にあったのです。17世紀台湾の発展にはいくつもの転機があり、まったく予期しなかった方向へと展開したのです」と言う。
数々の歴史的要因から台湾は国際社会に関わりを持ち始めた。鄭維中は次のような例を挙げる。1617年、スペインとオランダはマニラ海域で戦っていたが、突然襲った台風でマニラ・スペイン艦隊が打撃を受け、海戦に加わろうとしていたポルトガルの艦隊もダメージを負ったため、オランダは好機と見てマカオ侵略を試みた。また、1637年には日本で島原の乱が発生したことから、幕府はキリスト教を禁じ、また日本とスペインやポルトガルとの貿易を禁止して鎖国政策が始まった。オランダはポルトガルに取って代わって日本との貿易を行なうようになり、これによって鄭芝龍とともに日本からの銀の輸出を独占することになったのである。では、なぜ鄭成功は突然台湾を攻撃したのだろう。「わかりませんよ。どんなに考えても答えは出ません」と鄭維中は言いながら首を振る。「これも、この時代における最も興味深くドラマチックな出来事で、台湾の歴史にはしばしば予期せぬ転換が訪れるのです」と言う。
オランダ人と一緒に植物も台湾に渡来した。オランダ東インド会社の初代長官マーチヌス・ソンクは、バタヴィア本部に向けた書簡で、ブドウ、マンゴー、ライチ、ドリアンなど30種もの果樹の苗を送るよう求めている。
グアバ、マンゴー、キワタ、レンブ、サボテンなどもオランダ人が持ち込み、台湾の生物多様性が増した。
植物も一緒に渡来
そこで私たちは屏東科技大学森林学科を訪れた。民族植物を専門とする楊智凱助教が『ゼーランジャ城日誌』をめくりながら「難しいですが、興味深い問題ですね」と言いながら、こう話してくれた。現在ではオランダ時代と直接結びつく植物を探すのは難しいが、手掛かりが残っているのはプルメリアだろう、と。
プルメリアは中南米原産の植物で、オランダ人によってマラリア改善のための環境薬として持ち込まれた。雲林県口湖郷埔南地域にあるオランダ公廟の外には巨大なプルメリアの木がある。廟に祀られているのは、オランダ公、聖人公、聖人媽で、オランダ公は帽子をかぶって髭を生やし、黄色い上着に赤いズボン、ブーツを履き、手には銃を持っている可愛らしい像だ。年配者によると、このプルメリアの木はオランダ人が開墾のために定住した時に植えたものということで、亡くなってからは「オランダ公」として祀られたということだ。プルメリアの樹齢は370年に達するものと思われる。
台湾各地の地名からも歴史の片鱗がうかがえる。台湾でオランダ人と最初に接触したのはシラヤ族の人々と言われている。「キワタの木もオランダ人が持ち込んだものです。台南東山の古い地名『吉貝耍』はシラヤ語でKabua-Suaと言いますが、Kabuaはキワタ、Suaは集落を意味します。キワタの村という意味なのです」と楊智凱は言う。3~4月にキワタの花が咲くと、シラヤの人々は農耕を始める。シラヤの人々はキワタの綿で枕を作り、花弁は乾燥させて飲み物にしたと言われている。現在はシラヤ文化を伝えるものとして吉貝耍の教育課程に取り入れられている。
オランダ人が持ち込んだ植物には戦略的な意味も込められていた。グアバは果実を食用できるだけでなく、葉には下痢を止め、血圧を下げる作用がある。ナンバンサイカチは虫下しになり、また分厚い枝は大砲の台座に使われた。
台湾に根を張った異郷の果物
グアバ、レンブ、マンゴー、シャカトウ(バンレイシ)など、オランダ人が持ち込んだ経済作物は、台湾の自然景観を変え、また先人はこれらの植物の名を地名にした。例えば、抜林や抜仔林と呼ばれている土地は昔、グアバが植えられていたかグアバが取引がされていた場所だ。また檨仔はマンゴーを指し、台湾各地にこれを旧地名とする場所がある。
マンゴーもグアバも外来の果物だが、長年にわたって台湾に根付き、人々の記憶の中の「台湾の味」となっている。マンゴーは改良を経て黄煌や夏雪などの品種が生まれ、また青いうちに収穫したマンゴーの砂糖漬けを作家は「初恋の味」と形容している。さらにグアバ(芭楽)は、芭楽票(不渡手形)、芭楽歌(聞き飽きた歌)などのように、さまざまな言葉にも借用されている。メキシコから渡来したサボテンは、澎湖でアイスクリームに加工され、特産品となっている。
雲林県口湖郷埔南地域にあるオランダ公廟にはオランダ公の像が祀られている。祠の横には大きなプルメリアの木があり、樹齢は370年に達すると伝えられている。
漢人によるサトウキビと水稲の栽培
「オランダ人が台湾にもたらした最大の影響は、台湾の『無国家』時代を終結へと向かわせたことです」と鄭維中は言う。人類は長い歴史において、遊牧民や極地のイヌイットのように、一つの土地に定住することはなく、土地の所有権という概念を持たず、国家組織も必要としていなかった。1624年以前の台湾もそうだったのだが、大員にゼーランジャ城を築いてから、オランダは中国東南沿海の漢人を台湾開墾に募集するようになり、渡ってきた人々に土地を与えて税を徴収し始め、そこから不可逆的なプロセスが始まったのである。
オランダは税を徴収するだけでなく、多方面にわたって商業活動を行なった。海を渡ってきた漢人は指定された地域に定住して開墾し、国家の管理が軌道に乗って行った。土地の権利から税収が生まれ、売買、相続、抵当、貸借といった関係においては文字による契約と、国がそれを保証する制度が確立し、それから300年の後に島全体が体制内に収められたのである。
オランダが台湾にもたらしたより大きな影響と言えば、多くの漢人男性を台湾へ呼び寄せたことだ。台湾に渡ってきた彼らに土地を与えて定住させることで、漢人が台湾社会の主体となっていったのである。アメリカの著名な中国学者トニオ・アダム・アンドラーデは、著書『How Taiwan Became Chinese:Dutch, Spanish, and Han Colonization in the Seventeenth Century』の中で、この過程と出来事をまとめている。
後の台湾に大きな影響を及ぼしたこととして、「台湾の稲作とサトウキビ栽培もオランダ時代に発展しました」と鄭維中は言う。台湾南部はサトウキビ栽培に適していた。オランダ人も蔗糖から得られる利益を重視したため、台湾でのサトウキビ栽培に漢人を募集し、砂糖を生産したのである。中国の広東省と福建省でもサトウキビから砂糖を生産しており、製糖技術は台湾より優れていた。しかし、オランダ人はヨーロッパの販路を掌握していた。ブラジルにおけるポルトガルとオランダの戦争(1645~1654年)のために、ブラジル産の砂糖が品不足となった機に乗じ、オランダ人は台湾の砂糖をヨーロッパに輸出し、暴利を得ることとなったのである。その後、利益は減少したものの、台湾における製糖産業が発展するきっかけとなった。
「外来の生物種として、最大の影響をもたらしたのは牛でしょう」。牛は畑仕事の大きな力になる。オランダ人は中国から農耕の助力として水牛を輸入した。そして漢人移民に資産購入を奨励する措置と結び付けたことから、水牛が安定的に台湾に輸入されることとなった。
だが、水稲の導入はオランダ人にとっては思いがけないことで、漢人が続々と台湾に渡ってきたことによる結果だった。鄭維中によると、実はオランダは稲作を重視していなかったのだが、漢人の主食は米であるため、オランダ人が止めようとしても止められなかったのである。
1624年に台湾で何が起きたのか。城砦、果樹、水田、サトウキビ、水牛など、今の台湾のごく当たり前の風景の背後には、実はこうした物語があったのである。
オランダ統治時代、鹿皮は主要な輸出品で、主に日本が輸入して鎧の裏地に用いていた。資料によると、当時、台湾からは年間7万枚の鹿皮が輸出され、オランダは少なからぬ外貨を稼いだ。
台湾の製糖業はオランダ統治時代に始まり、当時すでにヨーロッパに輸出されていた。日本統治時代になると近代的な製糖業へと発展し、台湾の三大輸出品目のトップとなった。写真はサトウキビを運ぶトロッコ。
台江内海の周辺は、17世紀に台湾と異文化が初めて出会う舞台となった。
オランダが台湾での開墾を奨励したことから、中国東南沿海の多くの漢人男性が船に乗って海を渡ることとなり、それによって漢人が後の台湾社会の主体となっていった。
東南アジア海洋史を研究する鄭維中は、台湾の運命は地政学によって形作られたと語る。
現在のゼーランジャ城はいくつかの壁面や塀を残すだけとなったが、当時は航海の重要な目印であり、また中国東南沿海からの移民が台湾で最初に目にする建造物だった。
淡水にある紅毛城は台湾で最もよく保存されているオランダ時代の遺跡である。(外交部資料写真)
南投県草屯の加老里にある樹齢百年のマンゴーの木と田んぼ。こうした見慣れた風景も実はオランダ統治と大きな関りがある。
楊智凱は木に実った果実を手に、ジャックフルーツもオランダ人が台湾に持ち込んだと説明する。