漢人によるサトウキビと水稲の栽培
「オランダ人が台湾にもたらした最大の影響は、台湾の『無国家』時代を終結へと向かわせたことです」と鄭維中は言う。人類は長い歴史において、遊牧民や極地のイヌイットのように、一つの土地に定住することはなく、土地の所有権という概念を持たず、国家組織も必要としていなかった。1624年以前の台湾もそうだったのだが、大員にゼーランジャ城を築いてから、オランダは中国東南沿海の漢人を台湾開墾に募集するようになり、渡ってきた人々に土地を与えて税を徴収し始め、そこから不可逆的なプロセスが始まったのである。
オランダは税を徴収するだけでなく、多方面にわたって商業活動を行なった。海を渡ってきた漢人は指定された地域に定住して開墾し、国家の管理が軌道に乗って行った。土地の権利から税収が生まれ、売買、相続、抵当、貸借といった関係においては文字による契約と、国がそれを保証する制度が確立し、それから300年の後に島全体が体制内に収められたのである。
オランダが台湾にもたらしたより大きな影響と言えば、多くの漢人男性を台湾へ呼び寄せたことだ。台湾に渡ってきた彼らに土地を与えて定住させることで、漢人が台湾社会の主体となっていったのである。アメリカの著名な中国学者トニオ・アダム・アンドラーデは、著書『How Taiwan Became Chinese:Dutch, Spanish, and Han Colonization in the Seventeenth Century』の中で、この過程と出来事をまとめている。
後の台湾に大きな影響を及ぼしたこととして、「台湾の稲作とサトウキビ栽培もオランダ時代に発展しました」と鄭維中は言う。台湾南部はサトウキビ栽培に適していた。オランダ人も蔗糖から得られる利益を重視したため、台湾でのサトウキビ栽培に漢人を募集し、砂糖を生産したのである。中国の広東省と福建省でもサトウキビから砂糖を生産しており、製糖技術は台湾より優れていた。しかし、オランダ人はヨーロッパの販路を掌握していた。ブラジルにおけるポルトガルとオランダの戦争(1645~1654年)のために、ブラジル産の砂糖が品不足となった機に乗じ、オランダ人は台湾の砂糖をヨーロッパに輸出し、暴利を得ることとなったのである。その後、利益は減少したものの、台湾における製糖産業が発展するきっかけとなった。
「外来の生物種として、最大の影響をもたらしたのは牛でしょう」。牛は畑仕事の大きな力になる。オランダ人は中国から農耕の助力として水牛を輸入した。そして漢人移民に資産購入を奨励する措置と結び付けたことから、水牛が安定的に台湾に輸入されることとなった。
だが、水稲の導入はオランダ人にとっては思いがけないことで、漢人が続々と台湾に渡ってきたことによる結果だった。鄭維中によると、実はオランダは稲作を重視していなかったのだが、漢人の主食は米であるため、オランダ人が止めようとしても止められなかったのである。
1624年に台湾で何が起きたのか。城砦、果樹、水田、サトウキビ、水牛など、今の台湾のごく当たり前の風景の背後には、実はこうした物語があったのである。
オランダ統治時代、鹿皮は主要な輸出品で、主に日本が輸入して鎧の裏地に用いていた。資料によると、当時、台湾からは年間7万枚の鹿皮が輸出され、オランダは少なからぬ外貨を稼いだ。
台湾の製糖業はオランダ統治時代に始まり、当時すでにヨーロッパに輸出されていた。日本統治時代になると近代的な製糖業へと発展し、台湾の三大輸出品目のトップとなった。写真はサトウキビを運ぶトロッコ。
台江内海の周辺は、17世紀に台湾と異文化が初めて出会う舞台となった。
オランダが台湾での開墾を奨励したことから、中国東南沿海の多くの漢人男性が船に乗って海を渡ることとなり、それによって漢人が後の台湾社会の主体となっていった。
東南アジア海洋史を研究する鄭維中は、台湾の運命は地政学によって形作られたと語る。
現在のゼーランジャ城はいくつかの壁面や塀を残すだけとなったが、当時は航海の重要な目印であり、また中国東南沿海からの移民が台湾で最初に目にする建造物だった。
淡水にある紅毛城は台湾で最もよく保存されているオランダ時代の遺跡である。(外交部資料写真)
南投県草屯の加老里にある樹齢百年のマンゴーの木と田んぼ。こうした見慣れた風景も実はオランダ統治と大きな関りがある。
楊智凱は木に実った果実を手に、ジャックフルーツもオランダ人が台湾に持ち込んだと説明する。