米の香りの湯気が上がる屋台。売っているのは素朴な見た目の米粉を使った蒸し菓子だ。屋台という小さな舞台の上で、米食の美しさと有難さが際立ち、また米という食材の無限の可能性を感じさせる。
米が4000年前から台湾の住民にとって重要な食糧だったことは、明の将軍・陳第が1603年に著した『東番記』からも分かる。彼は当時の台湾原住民族の暮らしを観察し、「水田はなく、畑に禾(稲)を植える。山の花が咲けば耕し、禾が熟すと抜いて粒を砕く」と記した。このような日常活動の記録からも、稲と台湾の関係が長年続いてきたことがわかる。
時は流れ、時代が進むにつれてさらに多くの記録が残されるようになり、そこからも米が台湾の庶民の暮らしや宗教祭祀、歳時や慶弔行事、生老病死において重要な役割を果たしてきたことが読み取れる。
蒸気が上がり始めると、米の変身ショーが幕を開ける。
米の不動の地位
台湾の現代の食を見ると、柔らかく、ほどよい弾力のある蓬莱米(ジャポニカ米)が最もよく用いられ、ご飯や粥などにして食べられている。一方、澱粉質がやや少なく、パラパラとした在来米(インディカ米)は、碗粿(米を水で挽いて椀に注ぎ、具を入れて蒸した軽食)や米苔目(米粉の麺)やビーフンなどに加工される。粘り気がある糯米は、チマキや餅など、噛み応えのある食品に用いられる。
注目したいのは、近代になるまで、台湾の食卓の主役はインディカ米だったことだ。インディカ米が台湾人の食を支え、また菓子や軽食の原料とされてきたのである。
台湾で米が主食の地位にあり続けるのは、温暖で湿潤な気候による。年に多ければ3回も収穫できる米は庶民でも手に入れやすく、先人たちの重要な栄養源だったのである。彼らは米を炊いて食べるだけでなく、米粉や米汁を原料としてさまざまな食品を作り、外出する際にも携行できるようにしていた。
帽子の形の狀元糕。日本から来た観光客は富士山に似ていると言う。
一番おいしいタイミングで食べる
米を原料とした食品と言えば、炊いたり蒸したりすればできると考えがちだが、実際にはそのプロセスは簡単ではなく、菓子職人たちはそれをよく知っている。
彰化県鹿港にある老舗「玉珍斎」の王文敏・副総経理はこう話す。「小麦粉はグルテンを含んでいるので、菓子作りも数時間で終わりますが、米を使った菓子は火加減や湿度などの影響を受けやすく、長ければ数日かけないと完成しないものもあります」。そのため、米を原料とする菓子の場合、職人は米粒の状態をよく観察して手順を調整しなければならない。特に重要なのは「生米に火を通す」段階だ。
米の主要成分である澱粉は煮たり蒸したり、あるいは炒ったりして糊化の過程を経ると、体積と粘度が変化し、出来立ての菓子は色も香りも味も最良の状態になる。しかし、食べるべき最良のタイミングを逃してしまうと、米の澱粉質は老化して乾き、再加熱しても当初の状態には戻らないのである。
そのため、台湾人がよく「熱いうちに食べなさい。冷めるとまずくなる」と言うのは、米食の香りや甘みが冷めると消えてしまうことを指す。米を使った食品を美味しく食べるには最良の一瞬を逃がしてはならないのである。
狀元糕と言えば、嘉義の市民は「民族」と書かれたこの古い看板を思い浮かべる。
「状元糕」に新たな装いを
米の香りを立てながら蒸しあげられる小さな帽子の形の菓子は「状元糕(米粉の中央に黒ゴマやピーナッツの餡を入れた蒸し菓子)」である。言い伝えによると、科挙を受けるために上京しなければならない書生が、その旅費を作るために生み出したのがこの菓子だ。後に、無事優秀な成績で科挙に合格した彼は、皇帝にこの菓子を献上したところ、皇帝から「状元(科挙で第一等の成績を収めた者という意味)糕」の名を賜ったと言われている。
嘉義の市民の間で状元糕と言えば「民族路のあの店」「管仔粿」と言った方が通じるかもしれない。彼らが差すのは、いずれも嘉義市民族路にある「民族状元糕」で、1995年以来、状元糕と酸梅茶を主に扱っている屋台である。
家業を引き継いだ三代目の潘恩平は、幼い頃から母親と母方の祖母の屋台を手伝ってきたので、状元糕の作り方はよく知っていた。彼は慣れた手つきで椀状の木型に米粉と餡を詰め、それを蒸気の上がる孔の上に置く。十数秒も蒸気に当てると米に火が通って全体が半透明になり、状元糕の完成となる。
非常に簡単な作業のように見えるが、実は多くの秘訣がある。「状元糕で最も難しいのは木型の処理と材料の準備です。特に米粉の湿度を掌握するのが重要なポイントとなります」という。その話によると、状元糕の木型は柚木(チーク)を削って作ったもので、特にその硬さと耐水性、耐酸性が重視される。そして毎日、木型を使う前に妥当な処理をしなければ、長時間の加熱に耐えられないのである。
また、状元糕を作るには、ジャポニカ米を水に浸し、水とともに挽いて汁状にして固め、さらに粉に挽くという四つの工程がある。米は発酵やカビを防ぐため低温で保存しなければならず、常温の環境に戻したら、水分の変化を観察しなければならない。潘恩平は「湿気が強すぎると米粉は木型にくっついてしまい、乾きすぎると今度は水分を吸わなくなってしまいます」と言う。また、木型に米粉を詰める時には力の入れ過ぎに注意する必要があり、蒸す時間の加減も重要もになる。米粉を加熱しすぎると糊化して粥のようになってしまい、逆の場合は嚙めないほど硬くなってしまうのである。
状元糕のことになると、潘恩平の話は尽きないが、実は彼は状元糕販売の他にダンサーや木工職人など複数の仕事を持っている。こうした多様な仕事を兼務していることからこそ、彼は伝統菓子の状元糕に無限の可能性を見出せるのかもしれない。家業を引き継いで8年、潘恩平は看板の「民族」の文字を「糕拐」に変えた。そしてオリジナルの折り畳み式屋台を引いて人出の多い地域へ行く。将来は店舗と屋台を両立した経営モデルを実現したいと考えており、状元糕を古い時代のイメージから抜け出させ、新しいステージへと押し上げたいと考えている。
黒ゴマやピーナッツの他に、潘恩平はチョコレートや抹茶の餡を開発し、さらに嘉義名物の鶏肉飯など、さまざまな風味の狀元糕を試みている。
伝統的で新しい「鬆糕」
もう一つ、ローカルな米の伝統菓子と言えば「外省人の厨房」と呼ばれる台北市南門市場で知られる手敲鬆糕(米粉の蒸しケーキ。アズキなどが入っている)であろう。
蒸気が木製の型の中に吹き込み、数十秒もすると、職人は型をひっくり返して蒸しあがった菓子を取り出す。「コンコンコン」とリズミカルにたたくと、ふかふかの白い鬆糕が現われ、米と餡のやさしい香りが立ちのぼる。
従来は南門市場でしか聞くことのできなかった懐かしい音が、今では迪化街の合興壹玖肆柒でも聞かれるようになり、通りに響き渡る。この音に多くの人が足を止め、興味深そうにのぞき込む。
「これは何ですか」と多くの人が尋ねることからも、現代人には馴染みのない菓子であることがわかる。合興糕糰店の三代目の任佳倫・鄭匡佑夫妻が新たに合興壹玖肆柒を創業したのは、若い人にも鬆糕を知ってもらうためだった。
伝統に新たな衣を着せるというアイディアは、新旧のスタイルが融合する迪化街の特徴ともマッチする。店の入り口にかけられたオレンジ色の暖簾や、試食用の鬆糕に添えられた竹の菓子切り、それにギフト用パッケージの赤い糸の縫い目などは、鬆糕に大稲埕の衣を着せるイメージで演出されている。
そして舞台の主役である鬆糕にもきめ細かな演出がなされている。鄭匡佑夫妻は当初、鬆糕の小さい木型を作る機械を探して食品や機械の見本市を巡り、数えきれないほどの失敗を繰り返し、ようやく鬆糕が上手く仕上がる型を作り出すことに成功した。
鬆糕作りのもう一つのカギは、白米を挽くプロセスである。ジャポニカ米を厳選して洗い、水に浸けた後、粉に挽いて篩にかけ、木型に入れて蒸し上げる。米粒の大きさが鬆糕のきめ細かさや舌触りに大きく影響するが、冷めて全体が縮むと硬くなってしまう原因にもなる。「そこで私たちは篩にかける時に米粒の大小を微調整しています。おかげで水分を保つことに成功し、もちもちした食感が出せるのです」と鄭匡佑は説明する。
父である任台興のサポートがあり、二人は2016年から伝統菓子に新たな可能性を探り始めた。さまざまな形の木型を製作して形に変化を持たせ、黒米、紫米、赤米に栗やアズキやゴマなどの甘い餡を加え、お年寄りから子供までおいしく食べられるように工夫を凝らした。最近はイタリアンレストランのシェフと協力し、異国風味の塩味の鬆糕を開発し、それに台湾のクラフトビールを合わせるという提案もしている。「さまざまな味を開発し、業界の垣根を越えて協力するのは、さまざまな場で鬆糕が人々の目に触れるようにすることで多くの人に合興を知ってもらうためです」と鄭匡佑は言う。
彼は、こんな話もしてくれた。若者が両親を連れて大稲埕に鬆糕を食べに来ることがある。この小さな菓子が親子二世代の対話の懸け橋となるからだ。「私たちも、イノベーションの過程で両親との対話が増えました」と言う。
米は大地からの贈り物である。主食になるだけでなく、さまざまな菓子にもなり、数百年にわたって台湾人の食卓を豊かにしてきた。
台湾の形の伝統菓子
米食発展の過程をたどりつつ、伝統とイノベーションの懸け橋を見ていくと、古今の菓子職人が努力してきた方向が見えるかもしれない。彰化県の鹿港には「筆を持つ者は鳳眼糕(鳳の眼のような形の小さな落雁)を食し、鋤を持つ者は牛舌餅(牛の舌に似せて作った楕円形の焼き菓子)を食す」という古い諺が伝わっている。ここからも台湾の米食が時とともに磨かれ、単純に空腹を満たす目的だったのが、洗練されたものやローカルなものへと発展してきた軌跡が見て取れる。
玉珍斎の王文敏によると、菓子職人たちは米を使った菓子の開発において、強火で蒸す以外の製作方法を研究してきたという。例えば旧暦7月15日の中元節の祭祀で無縁仏に捧げる供物の「糕仔崙(落雁)」がある。これは1日1時間、3日続けてごく弱火の蒸気(水煙と言う)で蒸したもので、これによって柔らかいが歯ごたえのある菓子となる。また糯米粉で作る冬瓜糕も同じようにごく弱火の蒸気で蒸す。冬瓜を甘く煮詰めた餡を包んだ菓子で、弱火で蒸すことで、多くの人が好む餅のような食感が生まれる。
長年にわたって華人の米食文化を研究してきた王文敏によると、米を使った食品については風土によって異なる風習が見られるという。例えば、台湾の葬儀で参列者に贈る甜米糕(もち米の蒸し菓子)は、中国では慰問の品としてよく用いられるということだ。
台湾の米食「進化論」として見ると、技術の改良やローカルな原料の利用、風土による相違などが文化と融合し、台湾らしい色彩を持つものへと発展してきた。そして今日、米菓子の伝統を若い世代が引き継いで、米食にあらたな一章が生まれ、海外から訪れた人々も、その素朴なおいしさを楽しんでいる。
任佳倫・鄭匡佑夫妻は鬆糕作りに機械を導入し、職人の体力的負担を減らしている。最後にコンコンと叩いて木型から取り出す重要な工程だけは人手で行なっている。
小さな米粒は魔法の種子のように、さまざまなおいしい料理や菓子に変身する。
潘恩平は手押しの屋台を開発し、店名を「糕拐狀元糕」に変えて、子供の頃から馴染んできた小さな狀元糕に新たな衣を着せた。
合興糕糰店の商品棚に貼られた札には、商品名と価格の他に、初めて買う人のために中に入っているものの説明も書いてあり、温かい人情を感じさせる。
小さく可愛らしい鬆糕、甘い餅や各種焼き菓子などが、まるで宝物のように合興壹玖肆柒の木製のケースに陳列されている。
米と砂糖を混ぜて作った菓子は、昔は腹を満たすものだったが、しだいに繊細で見た目も美しい菓子へと変化してきた。(林格立撮影)
市場にはチマキや碗粿などの塩味の食品、草餅や紅亀粿、酒醸などの甘い加工食品が並んでいる。いずれも米を原料とした軽食である。