多くが町の要所にある廟は、周辺の市場や通りと深く結びついてきたため、その広場も住民の暮らしの中心となってきた。(北港朝天宮提供)
住民たちの信仰や交流の場であり、名匠たちによる巧みな工芸や、わくわくする芝居も見られる場所として、「廟埕」には長い年月人々が往来し、各世代の記憶を紡いできた。
廟に来ると、前殿に入る手前に広場があり、そこは「廟埕」と呼ばれる。巡礼の際の集合地になったり、ここで儀式や伝統芸能が繰り広げられ、霊媒師がトランス状態になったりする光景も見られる。また祭りや儀式の供え物が置かれる場所でもあるし、芝居の舞台もここに設置されるなど、多目的な用途を持つ場所だ。
演出の李勻のアイディアで、階段を境界とし、中庭にいるのが人、正殿にいるのが神々と分けたので、観客は一目で登場人物の関係を理解できた。(漾澄製作提供、廖紋瑤撮影)
媽祖の祝福と名匠の技
台湾の媽祖信仰の中心として北港朝天宮は、清朝康熙39年(1700年)の創立以来、多くの名匠たちの優れた工芸の技を集め、廟芸術の殿堂とされてきた。
朝天宮の前まで来るとまず出迎えてくれるのが、廟埕を囲んで伸びる低い石塀だ。そして廟埕の入口の両脇には、石造りの獅子が大小1対ずつ並んでいる。
北港でボランティアガイドを務める紀雅博がそれらについて説明してくれた。「石塀が廟埕を包むように弧を描いているのは、媽祖が両腕を広げて皆を迎えてくれるイメージそのままです。2対の獅子はやはり客を迎える意味と、その場所を守る魔除けの役割があります」
特に紀雅博が注意を促したのが小さい方の獅子だ。清朝咸豊2年(1852年)に「青斗石(緑色の玄武岩)」で作られたもので、台湾で最も美しい石造りの獅子として知られているという。背中は優美な曲線を描き、たてがみには精緻な線が彫られている。海を越えて運ぶために尾や耳は体から付き出ないようにデザインされているとはいえ、躍動的な姿をしている。
伝統の陰陽思想に従い、左側に雄獅子が、右側に雌獅子が配置されている。雄が球を抱えているのは「求められたものを授ける」ことを表し、雌が小さな獅子と戯れているのは、社会的地位や繁栄が代々続くことを象徴している。
獅子のすぐそばの石塀の上に立つ4体の龍王も媽祖からの祝福を表現しているという。
これも紀雅博が詳しく説明してくれた。この龍王像は、清朝光緒34年(1908)年に朝天宮の改築が行われた際に、中国大陸の恵安から3名の職人を招いて彫らせたもので、いずれも流れるようなラインを持ち、今にも動き出しそうに見える。4体には東南西北の順にそれぞれ「敖光」「敖明」「敖順」「敖吉」という名がある。「これは、参拝客が『光明順吉(光明に照らされ、物事が順調で幸運なさま)』であるようにという媽祖の祝福を表します」
廟埕内に入って足元に目をやると、広く石が敷き詰められているのに気づく。これは、北港がまだ「笨港」と呼ばれていた時代に、ここが商業の要所だったことの名残りだ。その時代、中国大陸との間を往来していた商船は、大陸で荷下ろしして船が空になると、帰りの船体を安定させるために安い花崗岩を現地で買って船に積み、台湾海峡を渡った。台湾で再び荷積みする際にはそれらの石材を下ろし、廟に使ってもらったのだ。
石の表面は滑りにくいようにざらざらとした加工が施されている。こうした加工は荔枝(レイシ)の皮のようにざらつきがあるので「荔枝皮」と呼ばれている。
石畳をよく見ると、前殿の入口へと2本、そこだけ線状にまっすぐ並べられた石があるのに気づく。紀雅博によれば、この線には二つの名前がある。一つは、この線と前殿入口の階段が直角に「丁」字型を成すことから「丁砛(砛は入口前の階段の意)」という呼び方で、信徒の家に「丁(男子)」が生まれ、福がもたらされるようにという意味もある。
もう一つの名は、風水思想に基づいた「龍鬚」というもので、媽祖の座する位置から龍の髭のように2本線が伸びていることからくる名称だ。
国の「古跡」に指定されている朝天宮は、廟の建物から廟埕に至るまであちこちに歴史の営みや職人たちの技がそのまま残る。媽祖廟は台湾全国にあるが、ほかの廟埕が時代とともに縮小されたりセメント敷きになったり、或いはアスファルト道路になってしまっているのとは対照的だ。
豚足スープ
銅鑼や太鼓を打ち鳴らし
「幼い頃、曾祖父がいつも背もたれ付きの椅子を携え、廟埕で催される芝居を見に私を連れて行ってくれたものです」と言うのは、歌仔戯(台湾オペラ)劇団とプロダクション「漾澄製作」の創立者である王博睿だ。廟埕にまつわる彼の思い出は尽きない。
彼にとって廟埕は、友達との待ち合わせ場所であり、何より歌仔戯を見に行く場所だ。
神の生誕祝いや祝日には、廟が劇団を招いて神に捧げる芝居を催す。正殿に向かい合う位置に舞台が組まれ、きらびやかな装いの役者たちが観客の心を揺さぶる芝居を繰り広げる。それとは対照的に、狭い舞台裏では衣装ケースの数々が並べられ、暗い照明の下で注意深く顔に化粧を施す役者たちの姿がある。そんな光景が、幼い頃よく舞台下にこっそり忍び込んでいた彼の脳裏に、今でも深く刻まれている。
彼がビジネスを捨てて演劇の道に進むきっかけとなったのは、兵役に就いていた年に友人に誘われて媽祖巡礼に加わった際、家族から「自分の町にも媽祖巡礼があるのに、なぜわざわざ他所のを見に行くの?」と言われたことだった。
その一言でふと考えた。幼い頃から地元周辺で見慣れた「十八庄迎媽祖(台中市の18地区が媽祖を迎える祭典)」や彰化市南瑤宮による巡礼なども同様に歴史があるのに、なぜ知名度が低いのだろうと。
そこで王博睿は都会での仕事を辞めて故郷に戻り、自分の故郷や媽祖信仰について多くの人に知ってもらおうと、媽祖に関する歌仔戯を作ることにした。お年寄りへの聞き取りなど、3年余りに及ぶ地元での調査を経た後、ついに2020年、彼が立ち上げたプロダクション「漾澄製作」は、最初の作品『林黙娘掛帥二部曲――笨港進香(媽祖采配二部曲――北港巡礼)』を発表した。
この物語は、台湾中部の名家「霧峰林家」の5代目だった林文明が処刑された事件を題材とし、当時の彰化南瑤宮媽祖巡礼の様子も描かれた。しかも舞台上での劇ではなく、南瑤宮の中庭で演じる360度のパノラマ舞台という演出がなされた。最も初期の頃の歌仔戯は観衆が周りを囲んで同じ高さで見るものだったが、これはそんな昔の形式への回帰だったとも言えた。
だがこの演出には当初、廟側から変更の要求があったと王博睿は明かす。「神への奉納である以上、神と向き合う位置で演じないと神に見せるという目的が達せられない」という理由だった。
そこで廟側との意思疎通が丁寧に進められた。演出の意図をよく説明し、これが決して神の怒りを買うものではないことを確認し、実現となったのである。
「演出家は、正殿を神聖な場として明確に分けました。神を演じる役者は正殿で、ほかの人間の役はその手前の廟埕(中庭)で演技するよう区別したのです」と王博睿は言う。こうすることで正殿や廟埕との間に対話が生まれ、観客も目を見張る劇となった。
劇中、南瑤宮の媽祖が観音亭(現在の開化寺)に監禁されて楊家の少女を救えなかったというエピソードが描かれ、媽祖の役を演じる俳優が、遠くに置かれた媽祖像を見つめる場面があった。これは観客の視線と重なるもので、また異なる味わいを加えた。
さらに王博睿は霧峰林家の末裔と連絡を取り、初演の前に、南瑤宮の媽祖像が林家を訪れるよう手配した。約150年前の未解決事件の無念を少しでも晴らしてもらえるようにという意図だった。「盛大にオペラを演じてそれで終わりというのではなく、なぜこの物語をやったのか皆に知ってほしかったのです。林家とどんなつながりがあるのか、そして歴史を明らかにするほかに何ができるのかということを」
こうすることで、自分たちは歌仔戯の伝統の継承者となることができ、そして林家の末裔も、遅ればせながら媽祖を迎え、霧峰の林家の物語をより完全なものにすることができたはずだ、と彼は説明する。
公演の夜、南瑤宮の廟埕はかつての賑わいを取り戻し、信徒たちの心も再び一つになった。くしくも林家の董事長である林俊明は、当初、王博睿にこう語っていた。「この公演を見た人が心を打たれ、笨港(北港)に巡礼して林家の邸宅も参観するようになれば、成功の第一歩となりますね」
エビ入り月見スープ
廟埕のにぎわいの今昔
芝居がはねて客が去っても、廟埕には人々のにぎわいがある。そしてそこには食べ物の香りが混じる。
台北市の大稲埕慈聖宮の廟埕には真昼の太陽が照り付けていたが、屋台のテーブルはガジュマルの木蔭にあり、木漏れ日が当たって食べ物をよりおいしそうに見せていた。
廟埕の外にずらりと並ぶ屋台も、どこも客であふれ返って忙しそうだ。たった数メートルの屋台街だが、肉粥、豚足スープ、豚肉の湯葉包み揚げ、茹でイカなど、あらゆる料理がそろい、美味しそうな匂いで満ちていた。
この大稲埕慈聖宮前の屋台街は観光スポットとして知られているが、むしろ廟埕に入って、ガジュマルの木の下で屋台料理に舌鼓を打ちながら歓談するのを好む人も多い。
だが、いわゆる「廟門前の屋台文化」のイメージは、廟埕ではなく、にぎやかな屋台街の方だ。「ファストフードの起源は、廟門前の屋台だと思います」と言うのは、慈聖宮前で茹でイカを売る「魷魚標」店の2代目店主・鍾麗淇だ。彼によれば、昔は廟の招きで芝居が掛かると何か月も続くのが普通で、続々と観客が詰めかけるので商売人も集まった。「人が集まれば金も集まる」という言葉があるように、食べ物を売る屋台は芝居の日程をよく調べており、芝居の一座と同時に屋台も廟の前に出現したという。
現代なら映画を見るにはポップコーンやコーラを買うように、芝居の前に屋台で食べ物を買うのが観劇の準備だったのである。だからこそ廟門前の屋台料理には、簡単に速く作れるものが多いのだと鍾麗淇は考える。
白いご飯の上に肉そぼろをかけた滷肉飯や、スープに麺と肉そぼろを入れる担仔麺などはこの例だと、彼は付け加えた。
鍾麗淇の売るイカは、初代店主・鍾金標が天秤棒を担いで売り歩いた頃から同じ調理法で作っている。イカは先に切って串刺しにしておき、客の注文を受けてから、自家製の沙茶醤(魚介ベースの調味料)に入れて茹でる。「当時は炭火で煮た沙茶の香りが、路地の入口まで漂っていました」と鍾麗淇は昔を振り返る。
やがて天秤棒は車輪付き屋台に変わったが、芝居の一座とともに動くのは変わらなかった。まだ夜の明けないうちから、たいてい父親が前から車を引き、子供たちを連れた母親が後ろから押して店を出す場所まで歩いた。
その後、長く慈聖宮に屋台を出していた縁で、当時の廟の職員がそこで店を出し続ける許可を出してくれた。商いが安定するとその噂が伝わり、親戚や友人も廟門前に屋台を出すようになった。「隣の屋台の店主は私のいとこ、チャーハン屋と猪血湯(豚の血の塊の入ったスープ)屋をやっているのは私の兄弟、私の妻は向かいの海鮮料理店の娘です」と、屋台街の端から端まで20店すべての名を彼は挙げた。「この屋台街はみな家族です」と言う彼の言葉は本当だった。
今や観光客でにぎわうようになった廟埕だが、ここには彼の幼い頃の思い出が詰まっている。広場の脇で、空を覆うほど大きく茂る数本のガジュマルの木を見上げ、鍾麗淇は「これらの木にはどれも登ったことがあります。廟の前にある獅子にも、私と私の息子もよじ登っています」と笑いながら言った。
子供の頃は両親とも商売が忙しく、彼はよく友人たちとこの広場で遊んだ。鳥を捉まえたり鳥の巣をのぞいたりと、それは楽しいものだったし、時には入り口で、参拝者の残した供え物のおこぼれにあずかるのを待ったりしたものだ。
時は移り、かつての遊び盛りの子供たちも60歳を過ぎ、廟埕で同時に三つの芝居が掛かっていたようなにぎわいももはや見られない。今あるのは、ガジュマルの木の下で食事する人々の笑い声やおしゃべりだ。それでも廟はいつもそこにあり続け、いつの時代もただ静かに人々や出来事を受け入れている。
観客の方を向いて正殿に立つ媽祖、順風耳、千里眼。まるで正殿の奥の神像が命を吹き込まれて出てきたようだ。(漾澄製作提供、徐志豪撮影)
スチールテーブルにスチール椅子で粥や小皿料理を食べる人々。廟前の広場には満ち足りた雰囲気がある。
水神とされる四海竜王は、参拝客を祝福するとともに、厄除けの役割も果たす。
「漾澄製作」の創立者・王博睿は、南天宮阿罩霧媽祖廟前の広場に数えきれない思い出がある。
「魷魚標」の看板料理・茹でイカは、大稲埕慈聖宮の門前で60年以上の間、美味しそうな匂いを漂わせてきた。
「魷魚標」の看板料理・茹でイカは、大稲埕慈聖宮の門前で60年以上の間、美味しそうな匂いを漂わせてきた。
北港文化ボランティア解説員・紀雅博による興味深い説明で、北港朝天宮の一つ一つの歴史が浮かび上がる。
かつては人と神の間の掛け橋だった廟埕は、時代の変遷を見つめ続け、今後も新たな頁を刻んでいく。
廟埕の公共スペースとしての機能は時代とともに薄れつつあるものの、前を通りかかった人が媽祖に手を合わせる光景は今でもよく見られる。
台中市の南天宮阿罩霧媽祖廟での『林黙娘掛帥二部曲――媽祖生』初演では、地元18地区の神々や南瑤宮の媽祖、林文察神像が祝宴に招かれて一つのテーブルを囲み観劇した。(漾澄製作提供、廖紋瑤撮影)
昔、廟埕は多くの商人や参拝客でにぎわっていた。(北港朝天宮提供)
廟埕に一歩足を踏み入れると、神々の荘厳さや威厳が感じられる。