「農業の母」「工業の母」
水量の豊富さと、勾配の大きさから、日本統治時代の総督府は、濁水渓を水力発電に利用し、ここに台湾工業化の基礎が築かれた。「濁水渓は工業の母でもあるのです」と張素玢は言う。
水利署によると、1934年に竣工した日月潭水力発電所は、当時は東アジア最大の水力発電所であり、台湾の土木業界の栄光とされた。
農業、工業、民生の各分野での水の需要が高まるにつれ、1990年代に政府は水源分配という方法を採用し、濁水渓中流域の集集鎮の林尾に堰を設け、その両側にそれぞれ林内分水工八角池に流れる取水口を設け、それを濁水渓沿岸の五条連絡用水路に流し、灌漑用水路と第六ナフサに分配することにした。
2010年、政府はさらに中部サイエンスパーク第四期(二林パーク)に、彰化で二番目に大きい農地灌漑システムである莿仔埤圳から工業用水を引くこととしたが、農家からの不満の声が上がり、9年をかけて、ようやく環境アセスメントが完了した。
「台湾で極限まで活用されている河川は濁水渓です」と張素玢は言う。農業の川から工業の川へ、濁水渓は常に台湾社会と緊密につながってきたのである。
かつて、濁水渓は政党の勢力が分かれるエリアでもあり、濁水渓の水が澄むと政権交代が起こると言われることさえあった。ただ、実際に川の流れが澄む原因は、雨量が少なくて流水量が減少し、そのために川床の土砂が沈殿したままの状態が続いた時なのである。
また濁水渓流域は、文化歴史作家の張素玢、呉晟、原住民作家の田雅各らを育んできた。水を用いるという行為への思考を喚起することで、濁水渓は文学の揺りかごともなった。
世界で最も長いナイル川は、毎年のように氾濫し、それによって生まれた肥沃な土壌が偉大な古代エジプト文明を育んだ。そのエジプトでは毎年8月15日から月末にかけて「氾濫祭」を行ない、ナイル川の恵みに感謝している。
80歳の曾吉永さんは、若い頃は竹で「石笱」を作る仕事をしていた。