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台湾をめぐる

台湾の母なる大河

台湾の母なる大河

濁水渓に思いを馳せる

文・郭美瑜  写真・林旻萱 翻訳・山口 雪菜

10月 2023

濁水渓の氾濫は、川下に豊富な水源と肥沃な黒土をもたらし、これによって中部は台湾の穀倉地帯となった。(水利署第四河川局提供)

ナイル川は毎年氾濫するが、それが古代エジプト文明を育んだ。

では台湾で、氾濫しつつ農業文化を育ててきたのは、どの河川だろう。農業社会から工業社会へと変わる中、台湾最長の河川――濁水渓こそ、これら産業を揺りかごとなったと言えるだろう。

盛夏の早朝、私たちは車で彰化県の二水郷から彰雲大橋を渡り、雲林県の林内郷へ、濁水渓文化を訪ねる旅をした。この二つの郷(町)は濁水渓を挟んで隣接している。ここは濁水渓の川幅が最も狭くなっている場所だ。橋の上から河道を見下ろすと、砂利の間に黄色や緑の雑草が生えている。ちょうど第一期の稲作の収穫期で、一部の農地には濁水系の水が引かれ、田んぼの底の土の色を反映して黒く輝いていた。

三百年前、施琅のいとこである施世榜が開墾のために鳳山から彰化へ移り、八堡圳(かつては施厝圳と呼ばれた用水路)を建設し、1719年に完成した。これは濁水渓の水で彰化の広大な農地を灌漑する台湾最古の大規模用水路で、台湾の農業はここから栄えていった。

「当時、濁水渓は広大な良田に水を提供して台湾の住民に食糧を提供しただけでなく、作物は鹿港から中国大陸へも輸出され、台湾に資金をもたらしました」と話すのは、水利署第四河川局の李友平局長だ。

八堡圳の完成に続き、黄仕卿が彰化中部を灌漑する八堡二圳(昔は十五庄圳と呼ばれた)を建設した。日本統治時代には彰化渓州郷を灌漑する私設の莿仔埤圳を当局が修築し、1924年には日本の技術者である八田与一が濁水渓南岸に「濁幹線」を構築して雲林の農地を潤した。いずれも濁水渓の水資源を農地へ引くものだ。

交通部観光局と彰化県は二水郷八堡圳で「跑水祭」を行なっている。先人たちの開拓と灌漑用水路建設の苦労に思いを馳せて感謝するために、昔ながらの方法で用水路の開通儀式を行なう。(彰化県文化局提供)

「月湾」を育む濁水渓の肥沃な土

濁水渓の源流は標高3200メートルの合歓山南麓「佐久間鞍部」で、河川の全長は186キロ、中部台湾の彰化、南投、雲林、嘉義の四つの県・市を経由し、彰化県と雲林県の県境から海へと注ぐ。水源が豊富なだけでなく、粘性の高い有機土壌を含んでいる。

李友平によると、濁水渓流域の年間降水量は2500ミリで、一年に75億立方メートルの豊かな水資源(石門ダム4つ分の貯水量に相当)を3156.7ヘクタールに達する流域にもたらす。濁水渓上流の地層の多くは浸食された板岩や頁岩、砂岩などであるため、濁水渓は多くの土砂を含み、水が濁っている。

「黄河と濁水渓のどちらの方が濁っていると思いますか」と問いかけるのは、国立台湾師範大学台湾史研究所(大学院)の張素玢教授だ。教授は20年の研究成果を『濁水渓三百年』にまとめた。その話によると、濁水渓の水が含有する土砂の量は、かつて「源流を標高3000メートル以上とする河川」の中で、単位面積当たり最多とされた。

濁水渓は二水の鼻子頭隘口を扇の頂として扇状地を形成しており、扇の頂から辺までの距離は40キロ、台湾最大の扇状地である。この肥沃な土地が台湾の穀倉地帯となったのは、濁水渓が運んでくる土砂のおかげである。

濁水渓の水資源が豊富なことから、日本統治時代には上流に堰やダムを設け、水力発電が行なわれるようになった。(水利署第四河川局提供)

気性の激しい濁水渓

水は船を浮かべることもできるし、船を沈めることもできる。濁水渓は豊かな物産をもたらすが、一方で氾濫して災害をもたらすことが住民たちの悪夢だった。

「台湾の河川の特徴は、流れが速いことです。中でも濁水渓は特にそうです」と李友平は言う。合歓山の一滴の水が濁水渓を流れて海に達するまで、通常なら2~3日、台風の時などは9時間しかかからない。

水利技術の発達していなかった時代、濁水渓流域の住民は「石笱」(または籠仔篙)で田畑に水を引いた。竹を籐で縛り、円錐形の「笱」を作る。それに石を入れ、隙間を藁で埋めて河道に置き、これによって水を引き、灌漑や廃水に利用したのである。

濁水渓流域の米を食べて育った張素玢は、「濁水渓は気性の激しい、暴れん坊の河川です」と形容する。濁水渓は砂礫や土砂の堆積によって幾度も河道を変えてきたが、中でも1898年の戊戌水害が最も深刻だった。そこで当時の台湾総督府は、護岸堤防を建設し、濁水渓は現在の河道を流れるようになったのである。

護岸堤防が築かれる前、川下の住民は「魔除け」を用いて水害を避けようとした。これらの村では、濁水渓への畏敬の念から、今も旧暦の7月に「拝渓王」という儀式を行なっている。

濁水渓流域を管轄地域とする水利署第四河川局の李友平局長。

「農業の母」「工業の母」

水量の豊富さと、勾配の大きさから、日本統治時代の総督府は、濁水渓を水力発電に利用し、ここに台湾工業化の基礎が築かれた。「濁水渓は工業の母でもあるのです」と張素玢は言う。

水利署によると、1934年に竣工した日月潭水力発電所は、当時は東アジア最大の水力発電所であり、台湾の土木業界の栄光とされた。

農業、工業、民生の各分野での水の需要が高まるにつれ、1990年代に政府は水源分配という方法を採用し、濁水渓中流域の集集鎮の林尾に堰を設け、その両側にそれぞれ林内分水工八角池に流れる取水口を設け、それを濁水渓沿岸の五条連絡用水路に流し、灌漑用水路と第六ナフサに分配することにした。

2010年、政府はさらに中部サイエンスパーク第四期(二林パーク)に、彰化で二番目に大きい農地灌漑システムである莿仔埤圳から工業用水を引くこととしたが、農家からの不満の声が上がり、9年をかけて、ようやく環境アセスメントが完了した。

「台湾で極限まで活用されている河川は濁水渓です」と張素玢は言う。農業の川から工業の川へ、濁水渓は常に台湾社会と緊密につながってきたのである。

かつて、濁水渓は政党の勢力が分かれるエリアでもあり、濁水渓の水が澄むと政権交代が起こると言われることさえあった。ただ、実際に川の流れが澄む原因は、雨量が少なくて流水量が減少し、そのために川床の土砂が沈殿したままの状態が続いた時なのである。

また濁水渓流域は、文化歴史作家の張素玢、呉晟、原住民作家の田雅各らを育んできた。水を用いるという行為への思考を喚起することで、濁水渓は文学の揺りかごともなった。

世界で最も長いナイル川は、毎年のように氾濫し、それによって生まれた肥沃な土壌が偉大な古代エジプト文明を育んだ。そのエジプトでは毎年8月15日から月末にかけて「氾濫祭」を行ない、ナイル川の恵みに感謝している。

80歳の曾吉永さんは、若い頃は竹で「石笱」を作る仕事をしていた。

大河と用水路の祭典

台湾でも、濁水渓の水資源と黒い泥が台湾の経済や文化、社会を発展させてきたことから、人々は、さまざまな形で濁水渓に対する感謝を表す行事を行なっている。

1995年、文化建設委員会(現在の文化部)は、彰化の「林先生廟」と八堡圳で「跑引水」(用水路を走る)イベントを開催した。現在は、秋の収穫と冬の貯蔵の時期である11月の最初の週末に、二水国際跑水フェスティバルを開催している。近年はこれをマラソン大会へと拡大し、選手たちに八堡圳の中を走ってもらい、「果実を食する時は果樹に感謝する」という台湾人の美徳を実践している。用水路を走るという特別なマラソンには、多くの外国人選手も参加するようになった。

跑水フェスティバルの主要会場の一つである「林先生廟」には次のような由来がある。八堡圳開墾の初期、施世榜らが水を用水路に引き入れるのに失敗し続けていた時、一人の老人が水利図を提供し、石笱を作って水を導く方法を教えてくれ、これによって、ようやく用水路に水を入れることができた。だが、灌漑に成功すると、この老人は何も言わずに去ってしまった。後の人々が二本の木の下に、老人が履いていた草鞋を見つけた。そこで老人を「林先生」として二水八堡圳の傍らに記念の廟を建てたのである。廟の中には施世榜と黄仕卿の禄位も祀られており、後の人々が三百年前の開墾の苦労と歴史に思いを馳せる場となっているのである。

「跑引水」の風習は、大用水路が完成して水が通った時、河川の神を祭る「通水祭」を行なったことから始まると言われている。この儀式では、蓑を着た「引水人」が用水路の中で供物を捧げ持ち、水が通った時に前へ向かって走るというものだ。引水人は、水の流れが速いために、しばしば犠牲になったという。現在は、水利技術が発達したことから、このような儀式は行なわれないが「跑水祭」には当時の水への感謝の精神が引き継がれている。

雲林県林内郷の烏塗地域では「搶水祭」を行なっている。参加者は石笱をかついで黒い泥の田んぼの中を走って競争し、先人たちが濁水と戦った危険や苦労に思いを馳せる。

濁水渓に親しむ

濁水渓流域の住民たちは、それぞれの方法で濁水渓との関係を大切にしている。例えば、二水源泉コミュニティ発展協会の頼昭旭・前理事長は、地域の高齢者とともに石笱の作り方を研究し、さらに「石笱復興計画」を打ち出している。石笱を地域の特色ある文化クリエイティブ商品へと発展させ、年配者に製作を依頼してコミュニティを活性化しようというものである。頼昭旭はさらに、自分の田んぼの中での綱引き体験を行なっている。多くの人に泥だらけの「粘人」になってもらい、濁水渓と離れ難い感覚を体験できるようにしている。

濁水渓を隔てた林内では、烏塗コミュニティ発展協会の林建安・総幹事が、2016年から「教芋部」(施設名)で「搶水フェスティバル」を開催している。石笱を抱えて田んぼの中を走り、先人たちが勇敢に濁水渓と戦った精神を体験する。

政府農業部の農村発展および砂防署の南投分署は、濁水渓河畔の農村の風土や文化を発展させるために、濁水渓流域の20の河川を訪ねる特色ある農村の旅を企画している。

日が傾く中、私たちは、かつては「極東一の大橋」と呼ばれた、渓州と西螺をつなぐ西螺大橋の上に立ち、濁水渓を見下ろした。河道には再生された防風林帯があり、浚渫した場所には草が生え、細い川が流れているだけだ。かつての大河の印象はなく、海風が吹き付けて来る。今日、私たちは科学技術によって水資源を最大限に利用しているが、私たちの母なる川と真剣に向き合ったことはあるだろうか。

日本の技術者、八田与一は嘉南大圳濁幹線を建設し、濁水渓の水を引いて雲林県の広大な農地を潤した。

国立台湾師範大学台湾史研究所の張素玢教授は、20年の歳月をかけて濁水渓の開発や水との闘いの歴史を研究してきた。

濁水渓の豊富な水と黒い泥は、全国に知られる濁水渓米とさまざまな農作物を育んでいる。

二水源泉地域の黒泥の田んぼの中で綱引きをすれば、粘りの強い「濁水膏土」の感覚を味わうことができる。(源泉コミュニ地発展協会提供)

彰化県と雲林県の天然の県境を成す濁水渓下流。1953年には西螺大橋が開通し、彰化と雲林の行き来が便利になり、南北往来の時間が短縮された。