台北の見本市を足掛かりに
「西螺と言えば醤油」となったのは、地元百年の老舗「丸荘醤油」2代目、荘昭典の功績だ。彼の父、荘清臨が造る醤油は1909年には地元でよく知られていた。1930年代、日本は戦争に備えて台湾で物資統制を実施、醤油もその一つだった。荘清臨は日本政府との合弁で虎尾醤油株式会社を設立。が、会社の主導権は日本側にあった。その後、敗戦で日本は台湾から撤退、二代目の荘昭典が虎尾を継ぎ、名を「荘益増」と改めた。
当時すでに西螺では名の知れた会社だったが、荘昭典はさらなる経営拡大のためにと、台北で開かれた台湾初の商業見本市に参加した。
本当に全国的に名を馳せたのは、1951年の台中での見本市がきっかけだ。この時、地元ブランドを強調しようと荘昭典は初めて「西螺名産、丸荘醤油」を謳った。これが驚くべき効果を発し、同じ言い方をまねる同業者が続いたので、西螺醤油の名は全台湾に轟くことになった。
実は、それ以前から西螺醤油のおいしさは人々によく知られていた。丸荘醤油の董事長、荘英堯によれば、鉄道や高速道路がまだ通っていない頃、濁水渓に架かる西螺大橋は南北移動の交通の要所で、西螺鎮は旅人が足を休める中継点だった。旅立ちの際には、みやげにと醤油を買っていくのが常だったのだ。
螺陽文教基金会の董事長、何美慧の話では、濁水渓沿いに位置する西螺は、豊かな水源と穏やかな気候に恵まれ、醤油製造に必要な安定した環境がある。そのため企業だけでなく、各家庭でそれぞれの味を持つ醤油が作られていた。
醤油が西螺を代表とする産業となったのには、ほかにこれといった産業がないという事情もあった。荘英堯はこう説明する。1960~70年代、台湾は高度経済成長を迎えたが、西螺には農業しかなく、職探しも難しかった。そこで、方々に点在する醤油製造所が住民の就職先となった。
西螺醤油の発展は、丸荘醤油抜きには語れない。今年、創立107年目を迎えた丸荘醤油を担うのは、三代目の荘英堯と荘英志だ。
兄の荘英堯は台北本社を率い、弟の荘英志は西螺工場と観光工場を取り仕切る。南北離れて勤務する二人がこの取材のために珍しく西螺に揃った。今や観光工場として生まれ変わった旧店舗は、兄弟の幼少時の思い出がつまった場所だ。
ずらりと並んだ醤油の甕のそばまで来て、「ここまでが僕の勉強部屋だった」さらに数歩進んで「ここは寝室」と荘英堯が言うそばから、荘英志が「いや違う。勉強部屋はこっちだよ」と記憶をたぐる。醤油の香りに包まれて育った二人だ。
荘英堯が高校の頃がちょうど父親が事業拡大を進めていた時期で、高校生の彼も家業を手伝い、父親の商才を目の当たりにした。現状に甘んじず、北部の見本市に参加を決めたのもその一例だし、今では一般的な440ccサイズの透明ガラス醤油瓶も、父の荘昭典が始めたものだ。
荘英堯によれば、当時は黒い醤油瓶を回収して再利用するのが一般的で、それが台湾語のことわざ「黒い瓶の中の醤油(才能などが隠れて見えないこと)」になったほどだ。だが荘昭典はパッケージの刷新に頭をひねっていた。そんなある日、あるガラス瓶工場で大量の飲料用ガラス瓶注文のキャンセルが出て困っているという話を聞きつけ、荘昭典はそれを醤油瓶に使うことを思いついた。瓶が透明なので醤油の色がより美しく見え、消費者に好評で、以来ほかの業者もまねるようになった。
ブランドイメージ重視は今では一般的だが、荘昭典は1930年代に早くも、書家に「荘」の字を書いてもらい、それに丸印をつけてブランドロゴとした。丸荘は今でもそれを使っている。
御鼎興醤油では古来の薪窯煮を継承し、新しい味を生み出している。