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台湾をめぐる

黒豆生産から醸造まで 昔ながらの本物の味——西螺の醤油

黒豆生産から醸造まで 昔ながらの本物の味——西螺の醤油

文・劉嫈楓  写真・莊坤儒 翻訳・松本 幸子

11月 2016

「西螺醤油」の名を知らない人はいない。小さな西螺の町には、醤油造りで百年の歴史を持つ店が残り、昔ながらの伝統製法が受け継がれている。

西螺は、歴史ある地元ならではの醤油の香りを漂わせるだけでなく、最近は、地元の農家が黒豆栽培に再び取り組むようになり、原料生産から醸造まですべてを西螺でこなそうと邁進中だ。

彰化県と雲林県の境を流れる濁水渓にかかる西螺大橋は、全長1900メートル余り、鮮やかな赤い鉄橋だ。ワーレントラス橋の構造をしたこの西螺大橋が、アメリカや日本の協力を得て1953年に開通した際には、サンフランシスコのゴールデンゲートブリッジに次ぐ長さの橋だった。

数年前、この橋を取り壊す話が出たが、螺陽文教基金会や地元団体の奔走で保存が決まり、今や堂々たる西螺のランドマークである。西螺の有名なものと言えば、この大橋と、そして毎日の暮らしとともにある醤油にほかならない。

御鼎興醤油では古来の薪窯煮を継承し、新しい味を生み出している。

台北の見本市を足掛かりに

「西螺と言えば醤油」となったのは、地元百年の老舗「丸荘醤油」2代目、荘昭典の功績だ。彼の父、荘清臨が造る醤油は1909年には地元でよく知られていた。1930年代、日本は戦争に備えて台湾で物資統制を実施、醤油もその一つだった。荘清臨は日本政府との合弁で虎尾醤油株式会社を設立。が、会社の主導権は日本側にあった。その後、敗戦で日本は台湾から撤退、二代目の荘昭典が虎尾を継ぎ、名を「荘益増」と改めた。

当時すでに西螺では名の知れた会社だったが、荘昭典はさらなる経営拡大のためにと、台北で開かれた台湾初の商業見本市に参加した。

本当に全国的に名を馳せたのは、1951年の台中での見本市がきっかけだ。この時、地元ブランドを強調しようと荘昭典は初めて「西螺名産、丸荘醤油」を謳った。これが驚くべき効果を発し、同じ言い方をまねる同業者が続いたので、西螺醤油の名は全台湾に轟くことになった。

実は、それ以前から西螺醤油のおいしさは人々によく知られていた。丸荘醤油の董事長、荘英堯によれば、鉄道や高速道路がまだ通っていない頃、濁水渓に架かる西螺大橋は南北移動の交通の要所で、西螺鎮は旅人が足を休める中継点だった。旅立ちの際には、みやげにと醤油を買っていくのが常だったのだ。

螺陽文教基金会の董事長、何美慧の話では、濁水渓沿いに位置する西螺は、豊かな水源と穏やかな気候に恵まれ、醤油製造に必要な安定した環境がある。そのため企業だけでなく、各家庭でそれぞれの味を持つ醤油が作られていた。

醤油が西螺を代表とする産業となったのには、ほかにこれといった産業がないという事情もあった。荘英堯はこう説明する。196070年代、台湾は高度経済成長を迎えたが、西螺には農業しかなく、職探しも難しかった。そこで、方々に点在する醤油製造所が住民の就職先となった。

西螺醤油の発展は、丸荘醤油抜きには語れない。今年、創立107年目を迎えた丸荘醤油を担うのは、三代目の荘英堯と荘英志だ。

兄の荘英堯は台北本社を率い、弟の荘英志は西螺工場と観光工場を取り仕切る。南北離れて勤務する二人がこの取材のために珍しく西螺に揃った。今や観光工場として生まれ変わった旧店舗は、兄弟の幼少時の思い出がつまった場所だ。

ずらりと並んだ醤油の甕のそばまで来て、「ここまでが僕の勉強部屋だった」さらに数歩進んで「ここは寝室」と荘英堯が言うそばから、荘英志が「いや違う。勉強部屋はこっちだよ」と記憶をたぐる。醤油の香りに包まれて育った二人だ。

荘英堯が高校の頃がちょうど父親が事業拡大を進めていた時期で、高校生の彼も家業を手伝い、父親の商才を目の当たりにした。現状に甘んじず、北部の見本市に参加を決めたのもその一例だし、今では一般的な440ccサイズの透明ガラス醤油瓶も、父の荘昭典が始めたものだ。

荘英堯によれば、当時は黒い醤油瓶を回収して再利用するのが一般的で、それが台湾語のことわざ「黒い瓶の中の醤油(才能などが隠れて見えないこと)」になったほどだ。だが荘昭典はパッケージの刷新に頭をひねっていた。そんなある日、あるガラス瓶工場で大量の飲料用ガラス瓶注文のキャンセルが出て困っているという話を聞きつけ、荘昭典はそれを醤油瓶に使うことを思いついた。瓶が透明なので醤油の色がより美しく見え、消費者に好評で、以来ほかの業者もまねるようになった。

ブランドイメージ重視は今では一般的だが、荘昭典は1930年代に早くも、書家に「荘」の字を書いてもらい、それに丸印をつけてブランドロゴとした。丸荘は今でもそれを使っている。

御鼎興醤油では古来の薪窯煮を継承し、新しい味を生み出している。

記憶の中の手造りの味

百年の老舗の丸荘醤油に対し、最近見かけるようになった「御鼎興」は、伝統の薪釜によって、西螺醤油に昔なつかしい味を再現させた。

今年50歳になる謝裕読は二代目だ。彼の父はかつて西螺に醤油製造所が林立していた頃に伝統の醸造技術を学んだ。1980年に父が亡くなり、謝裕読が家業を継いだ。謝家に嫁いで初めて醤油造りを学んだ邱碧恵によれば、当時、夫の謝裕読は30歳前、息子もまだお腹の中で、すべて自分たちだけでやるしかなかったと言う。

そばで注意してくれた父がいないと事情がまったく異なることに謝裕読は気づいた。醤油製造には蒸し煮、発酵、麹洗い、煮込みなど多くの工程があり、少しでも注意を怠ると失敗する。

黒豆に麹菌を加えた後、72時間かけて発酵させるが、この段階で最も重要なのが温度だ。ある時など発酵が進み過ぎてドロドロになってしまい、すべて廃棄して肥料にするしかなかった。温度管理のため、御鼎興では黒豆を発酵させる麹室に温度モニタリング制御装置を取り付け、季節によっても温度を調整している。

蒸し煮、冷却、発酵といった前半の工程は醤油の風味の50%を決める。残りの50%は、甕に仕込んだ後の半年から1年に及ぶ醸造期で決まる。謝裕読はこう説明する。発酵した黒豆の菌糸を洗浄した後、23時間放置すると豆は再び活性化する。その後は乾燥、半液状、液状の3種の方法によって異なる比率の塩を加えて醸造する。出来具合を確認するため、謝裕読は毎月1回巡視を行なう。1年たつと汁を取り出し、薪釜で2度目の加熱を行なって、やっと醤油が出来上がる。

ボイラーによる加熱とは異なり、御鼎興では薪火でじっくりと34時間煮込むので、しっとりとした味になる。194050年代生まれの台湾人には古く懐かしい味だ。ある台北の企業家は昔懐かしい味をあちこち探して、とうとう御鼎興に出会い、いたく感動していたという。

いくら手間がかかっても、謝裕読は薪釜煮をやめようとは思わない。釜自体、自分でわざわざ職人を探して作ってもらったものだ。釜口の広さ、傾斜角度、煙突の位置など熱の対流を考慮した釜でなければならない。だが現代では、昔ながらの釜を作れる職人を探すのは難しい。

御鼎興の独特の醸造法は最近メディアに取り上げられ、一気に有名になった。作家の劉克襄や王浩一がテレビの取材で訪れただけでなく、NHK「アジア食紀行」もやってきた。それまでは小規模経営で、謝裕読は販売も担当しなければならなかったが、今では売れ行きもよく、再び醤油造りに専念できるようになった。

醤油麹づくりの段階で醤油の風味が決まる。御鼎興の謝御読は品質を確保するために黒豆の発酵状態を丹念に確認する。

黒豆の栽培復活運動

西螺醤油のふくよかな味を大切にしようと、黒豆栽培を復活しようという動きも生まれている。

週末になると、台北花博の休日広場では台湾各地の農作物販売が行われるが、店を出すようになって数年目の蔡財興は、兵役を終えたばかりの息子と西螺からやってくる。小さな台に並ぶのは黒豆、黒豆茶、黒豆酢などすべて自家製だ。52歳の蔡財興が農業を始めたのは5年前、以前は散水設備販売、自動車改造、カーアクセサリー販売などをしていた。西螺で育ち、働いていた彼は、醤油に目がない。だがある日、醤油の原料の黒豆のほとんどが台湾産でないことを知り、黒豆栽培を始めようと決心する。西螺を醤油の故郷だけでなく、黒豆の故郷にしたいと考えたのだ。

蔡財興はそんな黒豆栽培への思いを、台湾語の詩にして店内に掲げている。「誰もが知り、名の轟く西螺醤油。その黒豆はかつては大陸産、今は自分の手で」

現在、蔡財興および他の農家の契約栽培で、黒豆の耕地面積は70ヘクタールに達した。だが5年前には、誰も加わろうとしなかった。

黒豆栽培は手間も時間もかかり、コストに見合わない。政府から休耕手当てをもらう方を選ぶ農家が多かった。そんな彼らの土地を黒豆畑に変えようと、蔡財興はより高い賃貸料で彼らの畑を借りると同時に、除草を手伝ってもらうなどして報酬も払った。そうして次第に農家の人たちを引き込んでいったのである。

しかも、農業経験のなかった蔡財興は農家のお年寄りや、台南農業改良場に教えを請い、そこから独自の栽培法を編み出した。黒豆栽培では23日目に灌漑するのが一般的だが、蔡財興は最初の水やりを8日目に行う。彼の説明はこうだ。水をやらないと土壌の上の方は乾燥するので、水分を得ようと黒豆は下方へ伸びて大地をしっかりつかむので、台風や季節風が吹いても倒れにくくなる。すでにびっしり根を張った黒豆は、ひとたび水をやれば吸収も速い。「普通なら1本のストローで水を吸うところを、我々の黒豆は100本使うようなものです」と蔡財興は言う。

こうした灌漑方法を開花や結莢期にも取り入れた結果、蔡財興の黒豆「台南5号」はよく実り、約10アールに280300キロを収穫する。普通なら収穫に3035日かかるが、蔡財興の手になると1週間ほど短くなる。

地の利もある。北回帰線から60キロの西螺は南部ほど暑くないが十分な日照がある。冬の季節風も強くなく、濁水渓という水源にも近い。

黒豆茶や黒豆酢だけでなく、蔡財興は西螺大同、華泰、陳源和などの醤油ブランドと提携し、地元原料による100%の西螺醤油を推し進める。「地元農作物と醤油醸造文化の結びつきに向けて、まだまだやることは多いです」すでに白髪混じりの蔡財興だが、力強くこう語った。 

御鼎興醤油は煮詰めた後の香りが濃く、豊かな風味がある。昔懐かしい味が幼い頃の記憶を呼び覚ます。

黒豆栽培の復活を推進する蔡財興は、契約栽培の状況をアプリで管理している。地元の農作物と醸造文化を結び付け、西螺の醤油文化をより深く根付かせたいと考えている。

黒豆栽培の復活を推進する蔡財興は、契約栽培の状況をアプリで管理している。地元の農作物と醸造文化を結び付け、西螺の醤油文化をより深く根付かせたいと考えている。

真っ黒でふくよかな台湾の黒豆「台南5号」から 作られる醤油は香り豊かで味わい深い。

西螺醤油の名は広く知られており、人口5万に満たない小さな町に醤油の看板が並んでいる。

百年の老舗ブランド

丸荘醤油の荘英堯董事長(左)と荘英志総経理(右)はともに百年の老舗ブランドを守り、西螺の醤油文化を発展させようと努力している。

御鼎興醤油では古来の薪窯煮を継承し、新しい味を生み出している。

御鼎興醤油では古来の薪窯煮を継承し、新しい味を生み出している。