台湾初の都市計画
地図からは、当時のオランダ人が計画した市街地がはっきりと見て取れる。規則正しい碁盤の目になっており、後の清代に随意に延びていった曲がりくねった道とはまったく異なる。
だが、まだ人口の少なかった台湾で、オランダ人はなぜ特別に都市計画を立てたのだろう。
黄恩宇によると、オランダ(Nederland)という国名は「低い土地の国」という意味で、国土の3割は海面より低い。彼らは水と共生して生きてきたのである。
それが海洋覇権を争う大航海時代となり、商売に長けたオランダ人はオランダ連合東インド会社を設立して極東でのビジネスを開始した。彼らはまずバタヴィア(現在のジャカルタ)を本拠地とし、日本と中国との三角貿易を開始、そのために中国の沿海地域にも貿易拠点を置きたいと考えていた。
最初は澎湖を選んで風櫃に城砦を建てたのだが、明朝に駆逐され、澎湖に近い「フォルモサ」と呼ばれていた台湾へと移ったのである。
航海と海軍の実力に自信ち、貿易のための航路を確保したいと考えていたオランダ人は、もともと水に慣れ親しんでいたため、最終的に「Taywan(大員)」の砂州に拠点を置くことにした。そしてここの砂州の上に台湾本島初のヨーロッパ風の城砦「ゼーランジャ城(Fort Zeelandia)」を建てる。これは本国のZeeland省から取った名称で、Zeeは海、Landは陸地を指し、「海と陸の城砦」という意味である。当時の地理的条件から見ると、まさにぴったりの名称だ。
彼らは城砦を建てるのと同時に、税収を考慮し、中世のヨーロッパの都市のように町も作った。田舎から農民を移住させて都市を発展させ、租税制度を導入して統治者として税収を確保したのである。
商人としての性格から、またオランダの母国で土地の取得が困難なことから、オランダ人は早くから土地の有効利用の概念を持っていた。そこで、彼らは土地を最も有効に活用できる碁盤の目の市街地を作ったのである。台湾の建築史から見ると、「これは台湾で初めての都市計画です」と黄恩宇は言う。
都市計画を補完するのは、同じく台湾で初めて出現した都市ガバナンスの概念である。現存する文献を見ると、オランダ人は極めて詳細な地籍資料を残している。土地の所有者、土地の縦横の長さ、面積などの資料に図面も添えてある。
また、オランダ人はゼーランジャの市街地に、取引に用いるための公秤所(商品の重さを量る公正な秤を設置した場所)や、民事事件を取り扱う市政法廷も設けた。市民の意見を参考に判決を下す制度で、現在の陪審員制度に似ている。
ゼーランジャ城の塀には今もオランダ人が構造を強化するためにつけたアンカーの跡が残っている。