「これまで20年もかけて作り上げた家は、一体どこへ行ってしまったのでしょうか。こんな目に遭いましたがそれでももう一度、やり直すしかありません」
震源地に近い九份二山の被災者は、瓦礫の上に立って我が家の再建を誓った。これが中部の震災被災地にありながら、逆境に負けない人々の精神を代表している。しかし復興と言っても、数多くの問題が山積みである。住宅の再建、経済的基盤の確保、子供の教育、周辺環境の整備など、大きな打撃を受けた家庭にとってはどれも困難なことばかりである。そしてこれら全てが多くの人の生活、人生、価値観を変えたとも言える。
1年が経った。再建はどれほど進んでいるのだろうか。被災地の住民の生活はどうなのだろう。そして、被災者に対して私たちには何ができるのだろうか。
車は中部の被災地を進む。沿線には建設業者の大きな広告看板があちらこちらに立っていて、新しい鉄骨構造建築は震度7の激しい地震にも耐えられると謳っている。新築中の建物の構造も鉄骨構造が多く、或いはびっしり鉄筋が埋め込まれ、異様とも言える風景を成す。
「誰もが地震を恐れて、建物の構造はできる限り強化しています」と、被災地をしばしば訪れる新聞局新聞センターの運転手黄春雄さんは話す。
四季が移り変わり1年が過ぎたが、台湾大地震は台湾の人々に忘れられない痛みとなって残っている。今年7月、農業委員会の水利土壌保全局が公表した統計によると、中部被災地で地震により地盤が崩落した場所は2万1000箇所に及んだ。その被害の程度によりABCDの4クラスに分けると、被害の一番ひどいAクラスは67箇所に及び、中でも南投県が31箇所を占め、それ以外は台中県など各地に散在する。地震が山地の地盤を不安定にし、余震が相次ぐ中で、崩落箇所はさらに増加しているという。また土地の液状化現象が広範に見られ、遠く彰化県や雲林県などまで及び、被害地域は更に広がるのである。
それと共に、農業委員会の見積によると土石流発生の危険性が高い河川が370もあり、危険な村落が65、影響を受ける人口は9000人に及ぶ。これらの地域は、主に南投県埔里郷、古坑郷、魚池郷、中寮郷である。現在、政府は各地に砂防ダムを建設し、また危険な地域の住民の移転を積極的に進めてもいる。
台湾大地震の後、各地からの義援金が数多く寄せられ、その場の救援には役立ったが、被災地の住民が本当に立ち直るためには、現地の産業の復興が欠かせないだろう。南投や台中は農業と観光で成り立つ県なのだが、地震後の生産力の回復はきわめて緩慢である。産業道路は大きく損壊したままで、農産物の輸送に影響し、コスト高につながる。地盤が緩んだために、果樹の根が切れてしまい、果物の生産量と味に大きく影響している。農地の潅漑、農薬散布、収穫などの設備は土砂に埋まり、破壊され、耕作再開が難しくなった。農業委員会の中部農業技術改良所の話によると、現在積極的に道路改修を進め、潅漑設備の建設も行い、耕作の再開を指導していると言う。農業委員会ではさらに、各地区に物流と貯蔵センターを建設し、農産物の流通経路の整備に努めている。
家屋の再建については、経済建設委員会が7月に成立させた「2001年度国民住宅計画」によると、1万1835戸の国民住宅を建設する予定である。その建設地は南投や台中の被災地が主となる。被災者自身の住宅建設に対しては、地震後に政府が提出した金利優遇ローンが適用されることになっている。しかし、中央銀行が用意したこの金利優遇ローンには1000億台湾ドルの枠があるものの、担保不足で申請ができない被災者が続出し、今年7月末現在でもまだわずかに200億台湾ドルしか貸し出されていない。信用金庫や信用組合、農協の貸出部門の住宅ローンもあるが、どれも貸出条件が厳しい上に、金利も高いと被災者からは不評である。
中部山地の住民の住宅建設用地は多くが境界のはっきりしない林業地に属し、土地の所有権が明確ではないため、銀行はこれを担保としたローンの受理に躊躇するのである。ローンが申請できないために住宅建設が進まず、住民の生活がより困難を極めるとは、当初予測できることではなかったと、政府側は説明する。
住宅建設が難しいばかりではない。今も仮設住宅に住んでいる被災者たちも問題に直面している。今年6月、呂秀蓮副総統が被災地を視察した時、台中県政府の傅盛曽社会局長が現状報告を行った。それによると、仮設住宅の居住期限は1年だが未だに住宅再建が進まず、仮設住宅に住み続けるしかないのだという。また仮設住宅に入らずに、住宅の賃料補助を選択した人についても、補助金が継続されるのかどうか不明なのである。
政府が制度や法律、規定に足を取られて効率的に再建を進められないでいるのに対し、民間団体による再建はずっと効率的である。例えば慈済功徳会が進めた仮設住宅建設や、企業による学校再建工事請負などは、それぞれに素晴らしい成果を上げた。
その一方、住民たちの自力再建の動きも見えてきた。日月潭の徳化社では、8月にシャオ族の拝鰻祭が行われた。埔里の酒造工場では、紹興酒の飲み放題というイベントが実施され、霧峰郷では文化フェスティバルが開始されている。どの自治体もこういったイベントによって失った観光客を呼び戻そうと必死なのである。
本誌では台湾大地震から1年を迎える今、被災地を取材し、文化の再建、観光産業の景気指標、社会構造の変化や危険地域からの村全体の移転、自然景観の変化など、多様な角度から震災後の社会を切り取り、それぞれ代表的な市町村を選んで報道することにした。その中には霧峰郷、日月潭、石岡郷、埔里鎮、国姓郷などが含まれるが、各地のレポートを通じて、読者に現場の臨場感溢れる状況を感じて頂きたいと思う。またもう一つのレポートとして、元監察委員の王清峰弁護士が組織した「地震被災地の被災住宅復興服務団」の活動を挙げる。この服務団は少人数ながら熱意溢れる人々の力により、この1年の間に中部の道路伝いに被災地に深く入り、社会的に一番力の弱い被災者向けに住宅の修理と建設を続けてきた。その活動は最も被害のひどかった中部山地の地域での貯水池や衛生設備建設、崖崩れを防ぐ防護壁の建設にまで及んだのである。この服務団のレポートも、各地の状況や被災者たちに何が本当に必要なのかを私たちに知らせる役目を果してくれることであろう。
去年の台湾大地震の後、余震が相次ぐ中部の山地では地盤が緩んで、時に土石流が発生している。余震や大雨の後には、本来緑豊かであった山林に幾筋も黄色い土の跡が見える。これに続いて土石流が発生し、山村のいくつかは脅威に曝されており、全村移転の選択を余儀なくされる。南投県埔里鎮蜈蚣里は、目下移転が急務とされる場所である。蜈蚣里の管轄にある果子林地区の30戸余り、獅子頭地区の30戸、九芎地区の100戸余り、そして漧渓の10数戸は移転せざるを得ない。
果子林地区の黄さん一家は地震の時は無事であった。だが今年初め2月21日の余震で、自宅の裏山の崖全体が崖崩れを起こし、2階建ての家の半分が土砂に埋もれた。一家は一時的に埔里の町の仮設住宅に移った。家の中の家具はほとんど運び出したが、黄さんは時々自宅に戻ってみる。壊滅した我が家を諦めきれないのである。
埔里鎮の地方議員である曾潘阿珠さんは、移転の必要な住民に手助けを惜しまない。その話によると、現在埔里鎮では果子林地区の川床の緊急掘削を終え、整備計画を作成しており、また九芎地区では護岸用蛇籠工事を進めている。しかし危険な地域は、やはり居住に向かない。自治体では土地の交換と買収方式で被災者の移転を進める計画で、国有財産局の河川公有地と台湾糖業公司の土地が移転先に選ばれた。被災者も、危険な土地からの移転には積極的である。
住宅地は同じ面積の土地と交換され、果樹園は公示価格で自治体が買収し、農民が自分で適当な農地を購入して再び農業を始めることになる。
「町の住民は比較的裕福でもあり、住宅再建の状況は随分進んでいて、余り問題はありません。しかし、移転の必要な被災者の土地は、本来林業用の入会地で多くは財産所有権が設定されていないのです。これではローンを組むのも難しいのです」と曾潘阿珠さんは話す。
土地の交換は公平に見えるが、それでも各家庭毎に状況は異なっていて、それぞれを満足させるのは難しい。「果子林地区の住民は多くが高齢者で、政府が新しい土地に交換しても、再建には費用がかかります。60過ぎの農家のお年寄りにローンを背負わせるのは、ほとんど無理です」と、被災者の黄さんは言う。自治体のアイディアも、被災者誰もが受け入れられると言うものではないのである。
「危機こそチャンスだと言う人もいます。しかし、それは中部の被災地には当てはまりません」と曾潘阿珠さんは言葉を続ける。被災地には全ての資源が不足している。土地の測量を申請しても1ヵ月2ヵ月と待たされ、しかも4000台湾ドルの費用を負担しなければならない。震災後に多くの寄付が集まったが、それにも限りがある。一人一人の必要をすべて満足できないのである。それに一番重要なのは、被災者が自力で立ち直れるように協力することではないだろうか。
地方紙の「蜈蚣崙社区報」編集長黄淑薫さんはこう言う。景気が悪くて、果物にいい値がつかない。農民が危険を冒して山の斜面で収穫した農作物も、安値のために生計を維持することさえできないのである。彼女はマスコミの報道方法にも異論がある。「このまえの七夕の時、贈物用のバラの花が1本300台湾ドルにまで高騰し、テレビニュースでは消費者に買い控えを勧めていました。でも産地では1本30台湾ドルで売られているのです。消費者は高値で買わなくなり、産地では売れ残っているのを報道しません」と。
移転しなければならない住民は、さらに悲惨である。黄さんは農業で身を立て、梅とビンロウを主に栽培していた果樹園は土石流に半分埋もれただけだが、農機具がすべて泥に埋まり収穫できない。今は生計の維持も難しい状態である。
「これからどうするかと聞かれても答えようもありません。移転してから何とかします。今は仮設住宅に住めるけれど、収入をどうするかが最大の問題です。これから新しい果樹園になってもはじめからやり直しでは、収穫まで何年かかるでしょう」と、黄さんはため息を吐く。
姿を変える国姓郷「震災でよく分かりました。普通の自家用車は山地では何の役にも立たないのです」と、南投県国姓郷の自治体の秘書李昌進さんは言う。
地震後、三菱自動車から寄付された四輪駆動車が、国姓郷の役場から被災地の九份二山までの唯一の交通手段になった。
国姓郷では台湾大地震で、全壊と半壊の家屋が4000戸近く、死傷者は100人余りに上り、また22人が生き埋めとなって行方不明となり、未だに遺体が収容されていない。
震災後に国姓郷が特に注目を集めたのは、その所轄地域である九份二山一帯が震源地と見なされたからである。また九份二山の巨大な岩山に断層が走り、山全体が移動する現象が見られ、大地震が残した生きた地学教材とも言える。
1年の後、地震がもたらした自然環境の変化に伴い、景観は変り新しいっ自然の生態が形成されつつある。
真っ直ぐ通っていた龍南産業道路は、今ではあちこち切れ切れになって曲がり、現在は農業委員会の水利土壌保全局が掘削した臨時道路を、施工と視察の車が走っている。しかし山地は地盤が緩んでおり、落石が相次ぐために、四輪駆動車であろうと、緩んだ崖沿いの道を走るのは、相変わらず危険が一杯である。
九份二山の震源地は今もそのままに残されている。巨大な岩壁が数百メートルも移動し、地層が盛り上がった逆断層付近の家屋はほとんど全壊したが、家の主人は幸いにも軽傷を負っただけで済んだ。陥没した側の断層の農家も幸運だった。山全体が移動し、農家二棟が谷に向って数千メートル滑り落ちたが、家自体に損傷はほとんど無く、中の人も無事だった。しかし谷の住民はそうはいかない。3000万立方メートルに及ぶ土砂が数百メートルの深さの谷を埋め尽くし、41人が生き埋めになったのである。これまでに19人の遺体を掘り出したが、捜索は去年11月で打ち切られたままである。「高速道路建設の経験から言って、100万立方メートルの土砂崩れでも、土砂を取り除くには最新の機器を使って3年かかります。九份二山の土砂崩れでは3000万立方ですから、どうやっても掘り出すのは無理です」と李昌進さんは大自然の力の凄さに言葉も無い。
九份二山の逆断層では、岩の層が裂けて平行に数百メートル移動した。断層では岩の層全体が露出し、草木も生えない。崩落した地盤は180ヘクタールに及び、渓流を遮り谷を埋めて、「韮菜湖」と「渋仔坑湖」の二つの堰止湖が出来上がった。塞き止められた湖では、水流の行き場が無くなるために、今年5月に決壊の恐れが出てきた。しかし水利部門の評価の結果、この新しくできた湖を保存することに決まり、放流を行っているために現在のところ決壊の危険は遠のいている。しかし水利土壌保全局では湖の水位を測定器で監視し、また下流に砂防ダムを築いて土石流に備えているのである。
現在、日本、中国大陸、ヨーロッパ等から自然地理学者が調査に訪れ、この一帯に研究価値を認めているため、国姓郷の自治体では九份二山を地震記念公園に指定し、地震後の景観をなるべくとどめておいて、これからの学術研究や教育に役立てようと計画中である。
以前は真っ直ぐだった産業道路も、今では湖に水没している。電信柱が波間に立っており、万物がおもちゃのように自然の力に捻じ曲げられた。その地震から1年後、九份二山一帯には新しい自然の景観が生まれつつある。夏の日の谷に蒲公英の綿毛が飛び交い、大地が回復の息吹を見せる。人間はこの大地の激しい怒りから、何を学ぶというのだろうか。
霧峰、古跡の鳴咽旧名を「阿罩霧」といった台中県霧峰郷には、林家庭園や台湾映画文化公司、台湾省議会などの文化遺跡が数多く、文化の郷と言われていた。それが去年の台湾大地震のために、林家庭園はほぼ全壊してしまい、省議会こそ無傷であったものの、台湾中部の文化的な大災害となったのである。そこで震災後のこの地域の調査と再建とが、台湾中部地区の文化復興の指標と見なされるようになった。
まず林家庭園の下厝に足を踏み入れる。傍らには霧峰の林家下厝管理委員会と「阿罩霧文化基金会」のトタン屋根のワークショップがあるだけで、それ以外には古い建物の相貌をうかがえるものは何も無い。玄関跡がうっすらと元の建物の位置を示し、赤い煉瓦の隙間から伸びた草はすでに人のひざに達している。震災後1年、倒壊した瓦礫の一部は撤去されたが、林家庭園ではどんな建設も始まっていないように見える。半壊の正殿の室内は、壁画が直射日光に曝され、雨曝しになって褪色がひどく、字の跡も見分けにくくなってしまった。
林家庭園は二級古跡である。清朝の名族林家の邸宅で、頂厝、下厝、莱園の三つの部分からなる。頂厝は個人の財産で、文化建設委員会が管理と整備に補助を出している。下厝は一族が管理委員会を組織して守ってきた。
下厝管理委員会の総幹事林邦珍さんによると、地震で下厝の草厝、宮保第、大花庁、二房厝などの5つの建物群が6割から全壊の被害を受けた。二十八間の部分は無事だったという。
この1年、下厝管理委員会では到壊した建物の整理と分類、保存に努め、半壊の建物には手をつけていない。その進度の遅れに、一度ならず学界や世論から非難の声が上がった。
「庭園は古跡で、私たちがどうこうできるものではありません。古跡の整理と再建には、まず慎重な調査と評価が必要で、文化建設委員会から400万台湾ドルの補助を受け、管理委員会が倒壊建物の整理と保存、記録作業を進めています。半壊の建物はまだ鑑定の途中で、何も手をつけられないのです」と、林邦珍さんは説明する。彼自身にも不満はある。地震の後、林家庭園を再建するかどうかで、学界でも意見が割れているのである。管理委員会は復元を目指しているが、政府は再建の方向に進んでいるとは言いがたく、管理委員会でも先が読めない。
頂厝の部分も、倒壊家屋と瓦礫とが被災直後のまま放置されていて、何の整理も行われていない。建物は野ざらしになっていて、その二次的損傷は下厝よりもさらにひどい状態である。
蓉鏡斎、新厝、景薫楼、頤圃と頂厝の4つの建物群は、下厝と同じく地震でほぼ6割から全壊に至る損傷を受けた。現在、現場では管理員林萬枝さん一家だけが現場を管理している。頂厝の所有者は他の土地に住んでおり、政府が完備した復元計画を提示し、経費を出さない限り、倒壊した建物は現状のままにおいて置くしかないのだと林萬枝さんは話す。「古い建物が野ざらしになっているのを見るのは、私にしても辛いのです。しかし古跡の再建は上からの決定を待つしかなく、通知が無い限り、どうしようもありません」と60歳を越える林さんは、惨状を目の当りにしながら言葉も無い。
その一方、台湾映画文化公司の状況と比較すると、林家庭園はそれでも社会的な関心を集めているとさえ言われるのである。
台湾映画文化公司は、台湾で最初の映画製作スタジオである。当時一世を風靡した映画「西施」や「小鎮に春来る」などがここで撮影された。台湾の映画産業の重心が北に移ってからは映画文化パークとなり、遊園地としての設備を揃え、豊富な映画関係資料を保存し、台湾中部の娯楽教育施設の役割を果してきた。しかし、その経営は順調とは言えず、地震前にすでに従業員の給与遅配などが起きていたと言う。公営会社であったため、台湾省政府はこれを民営に移す計画だったが、それが実施される前に地震で建物が全部倒壊してしまった。幸いなことに、映画関係の資料は被害を受けず、すでに国立映画資料館に移されて保存され、会社自体は今年7月に解散された。その跡地に足を踏み入れてみると、地震のために入口は3メートルも隆起していて、整地作業を進める作業員が訪問者に注意を呼びかけるのである。瓦礫の下には遊園地の設備のために設置された排水溝が穴をあけていて、危険な落し穴になっている。
林家庭園は復元が待たれ、台湾映画文化公司と言う重要な観光資源を霧峰は地震で失ったが、この試練のおかげで一方では生きた教材を獲得することになった。
光復中学の傍ら、ちょうど車籠埔断層の上に位置したグラウンドは、平坦であった場所に数メートルの断層の落差が生じ、マスコミに頻繁に取り上げられて、地震のシンボルになった。これに光復中学の全壊校舎を加えて、教育部では地震博物館を設立することにしたのである。ただ計画はあるものの、実際には近隣の住民の反対もあって建設に向けての実際的な動きはまだ無く、一部が区画されて現状を保存しているだけである。
中国語では十年で木を育て、百年で人を育てると言う。文化の育成と再建は、簡単にできることではない。歴史的な文物が時間の流れと大地の激変の中で失われていくのを目の当りにしながらも、これからの発展に期待を寄せずにいられないのが人間である。霧峰の自治体では観光産業振興のために、今年9月に第1回阿罩霧文化シーズンを実施する予定である。台湾省議会記念地区を中心に、再び観光客を呼び込んで、地域の振興を図り、霧峰の復興に賭けたいのである。「霧峰の再建には霧峰の人ばかりではなく、観光客が帰ってきてくれてこそ、被災地の住民に最大の援助となるのです」と、自治体の担当者林信如さんは期待する。
色褪せぬ風光、日月潭「日月潭の人々は被災地と呼ばれるのを嫌います。被災地と言うと観光客が来なくなり、経済を支える観光業が振わなくなりますから」と、日月潭の観光ホテル「哲園名流会館」の企画マーケティング担当マネージャー、王淑娟さんは話す。
その通りである。夏の台湾の名所である日月潭は、虫の声、鳥の声があちこちに聞かれ、雨模様の黄昏時には湖面を深く霧が被い、その静謐を愛する観光客をひきつけていた。これまでそういった観光客で賑ってきた日月潭だが、今年の夏は静まり返るばかりである。人が行き来していた渡し舟の渡し場には「日月潭老人会」の上着を着た船頭が二人、ぽつんと座っているばかりである。
「渡し場に一日座っていても、お客は一人も来ませんよ。にぎわっていた頃に比べると、3割程度ですかね。暮し難くなりました。以前なら6000台湾ドルだった遊覧費用を今では1500台湾ドルにまで下げて、時間制限も無くしたと言うのに、お客が来ないのですから」と嘆く。観光客がまったく来なくなったのである。
台湾大地震で日月潭の大型ホテルのいくつかは被害を受けたし、日月潭の目玉と言える風光明媚な光華島の建物も半壊した。それでも他の被災地に比べれば、被害はさほどではなかった地域なのだが、観光客が来ないとなると、地震後の後遺症は他の地域と同じである。
王淑娟さんによると、台湾大地震の後でも観光産業は一度は回復の兆が見えたのだと言う。ところが6月11日に大きな余震があって、再び観光客が逃げてしまった。日月潭の大型ホテルの中でも、中信ホテルと天盧ホテルは取壊して再建中であり、蒋介石総統の別荘を改装した涵碧楼も改修中なので、観光客は哲園名流会館に来るしかないはずである。ところが、その哲園名流会館でも7月初めには10室しか宿泊客がいなかったことがあった。
「大きなホテルでもこの有様ですから、民宿ではお客が来ません」と彼女は話す。
観光産業の不景気で、特産品の粟餅や粟酒、お茶なども売れ行き不振のため、多くの業者が倒産している。これまでは毎日先住民のダンスなどが見られたシャオ族文化村も、今では営業停止になってしまった。
「舞踏団でもダンサーを抱えていられなくなって、解散して山の実家に帰って狩猟で暮しています。時たま、観光ツァーの予約が入ったりすると、近隣に住んでいるダンサーを呼び集めてダンスを見せるくらいです」と、ダンス好きのシャオ族の迪路さんはため息混じりに話す。
日月潭の名所は地震の後でも、光華島が半壊した以外は、余り大きな被害を受けてはいないのである。水力発電を行っている台湾電力では、ダムの決壊を恐れて日月潭の水位を下げたのだが、そのために水鳥公園の砂洲が水面に大きく出てきて、葦と水鳥とが美しく照り映えて、以前より却って趣きがあるという。それなのにマスコミは台湾中部の被災地の土石流や気象ニュースのみを大きく取り上げ、どこもかしこも同じく危険に見えると、王淑娟さんは不満である。日月潭はよく晴れているのに、他の地域が大雨のために同じく土砂崩れが起るかのように思われてしまう。
「日月潭は国立公園で、台湾でも一級の観光地なのです。万一交通が遮断されても、政府が一番最初に車を通してくれます。地震で地盤が緩んで土砂崩れが起りやすくなっているのは確かですが、今まででもそんなことはありました。それでも観光に影響はなかったのです」と、日月潭観光をもっと信頼して欲しいと王さんは話す。「何と言っても、台湾で一番美しい風景を誇るのが日月潭なのですから」と、さらに言葉を続けた。
石岡、伙房建築の安全性台中県石岡郷は台湾大地震でも死傷者が一番多く、全壊と半壊の戸数が2000余りを数え、法定の倒壊基準に達していない被災家屋は数え切れないというほどの被害を受けた地区である。数百年の歴史を持つこの伝統的な客家の集落では、多くが「土角厝」と呼ばれる古い建築であったため、地震で瓦礫の下敷になった住民の死傷者が200人余りに達してしまった。
大地震から一年後の石岡郷を訪れてみると、撤去された家屋の後に残された空地が点在して、びっしりと連なっていた屋根のあちこちにでこぼこの隙間が見えるが、再建中の建物は鉄骨構造が目立ち、住民の地震への恐怖がうかがえる。
石岡でも有名な下町はちょうど断層の上に位置していて、道路は盛りあがり傾斜し、あちこちでこぼこになっている。幸いなことに木造の穀倉や精米工場、日本時代に建てられた消防局などは被害を受けず、古い石岡駅の建物が2メートル余り隆起し、地形が歪んだだけに留まった。駅については地震記念に残すかどうか計画が決らず、まだ震災直後の状態を保存している。
こういった古い建物が余り被害を受けなかったのは、昔気質の石岡の人々にとって幸運とも言えるが、地震発生後一年たって、伝統的な社会構造が受けた大きな衝撃が一つ一つ表に現れてきた。中でも保守的と言われた土牛村では、その影響が深刻である。
土牛村の住民は、ほとんどが劉という姓である。清朝乾隆年間に広東から移住してきて、すでに数百年の歴史がある。最近では若者が村を離れていき、人口構成は農業を主とした老人になっているが、それでも数戸が同じ敷地の伙房に住み、土地を共有し、毎年順番に祖先を祭るという生活様式を守っていたのである。ところが地震の後、伙房がすべて倒壊し、近辺の農家も多く被害を受けた。一年前には鶏の鳴声、犬の吼え声が響くのどかな農村だったのに、いまではさびれきってしまった。
昼過ぎ、雲が垂れ込めていると言うのに、数人の老人が土地神の廟の傍らに集って世間話をしている。しかし、そこには以前の活気が見られない。独り者の劉さんは今年65歳、体調も思わしくなく、晩年を迎えて孤独である。地震までは、密接な人間関係を保っていた土牛村の中で、隣人やら親戚やらと毎日言葉をかけあい、毎日を楽しく過していた。それが今では、ちょっとした生活の温もりでさえ、なかなか得られないのである。
「地震が村全体を揺るがしてしまいました。昔馴染のご近所は、町のしっかりした家に引越してしまうか、外に出た子供のところに引き取られ、みんなばらばらです。昔馴染は、一人もいやしません」と、劉さんは雨の中で咽び泣く。
劉さんの木造の自宅も地震で全壊した。土地は一族の共有だったために、これを担保に住宅ローンを組むこともできない。今では政府が提供するコンテナ住宅に住んでいるが、夏は暑く冬は寒い、わずか二坪の家である。料理は外の炊事場でするしかない。ところが最近では雨脚が強くなって、ビニールで被っただけの炊事場では雨を防げないのである。一人きりの劉さん、初めのうちは親戚や隣人の援助に頼っていたが、今ではトタン屋根の小屋を建てることさえ遠い夢である。
「今、コンテナ住宅には五戸が暮しています」と、民間ボランティア団体の「石岡の住宅再建ワークステーション」のスタッフ黄冠博さんは話す。この五戸の家族は伙房の再建を待ち望んでいるが、他の被災者はほとんどこの土地を離れていってしまった。
劉家の伙房は客家文化の貴重な資産であるため、文化建設委員会ではその再建を計画している。「初めのうちは、地震後の住宅再建が老化した農村の住民構成に新しい活力を与え、一族の力をまとめられるものと考えていました。ところが、大家族の土地所有権問題が複雑に絡み合い、人が多いために意見もまとまらないのです。その上に、とっくにこの土地を出ていった一族のメンバーが、今になって帰ってきて財産分与を求めるものですから、伙房の再建には問題が山積みなのです」と黄冠博さんは言う。
土牛村の人々の団結精神のシンボルだった伙房を倒壊させ、さらには社会構成の分断が加わり再建は困難をきわめている。再建に関しては住宅や建物などのハードの問題だけではなく、人の心をどうするかがより差し迫っているのではないだろうか。