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台湾をめぐる

和平島でのタイムスリップ

和平島でのタイムスリップ

大航海時代の遺構を訪ねて

文・蘇俐穎  写真・莊坤儒 翻訳・松本 幸子

10月 2023

「八尺門水道」に掛かる和平橋を渡れば、ほんの100メートルほどで台湾本島に最も近い島に行ける。

埋め立てが行われる前の和平島は、三つの島に分かれていた。「社寮島」の旧名を持つ本島「和平島」、「中山仔島」、「桶盤嶼」の三つだ。

まだ橋などなかった昔、ここは本島とは隔絶された場所だった。だが周囲を海に囲まれた島は、水運の栄えた時代には世界につながるという利点があった。ここはそんな地理条件が、数多くの「初」を生んだ地でもある。

17世紀の大航海時代にスペイン人やオランダ人が続々と東アジアに足を延ばし、台湾も初めて世界地図に登場した。彼らの地図に最初に出現した台湾の地名は「Kelang」や「Quelang」で、それは現在の和平島の地点を指している。

後に、最初に台湾北部にやってきたスペイン人は、和平島に「聖薩爾瓦多城(サン・サルバドル城、別名は聖救主城)」を建てた。1辺約100メートルの正方形をしたこの城は、同時代建設の「安平古堡(ゼーランディア城)」よりも大きく、当時は東アジア最大のヨーロッパ式城郭だった。

彼らは同時に台湾初のカトリック教会「諸聖教堂」を島に建設した。これはスペイン帝国から最も遠くにあるカトリック教会となった。

サン・サルバドル城のあった場所は、第二次世界大戦末期には造船所が作られ、城の遺構は現在「台船(台湾国際造船公司)」の下に埋もれている。なお、「台船」は1973年設立で、その前身である日本統治時代設立の「台湾船渠株式会社」は台湾初の造船所だった。

同じく日本人が残したものに1935年完成の「和平橋(旧名「基隆橋」)」がある。基隆と和平島を結ぶこの橋は、清の時代には小舟をつなぎ合わせた浮橋だったが、後に幾度も修復され、台湾初の海をまたぐ橋となった。

和平島の歴史を語る曹銘宗さんには、地元への誇りと思いがあふれる。

忘れられた「エルモサ」時代

「東西の文献から、和平島は台湾北部の歴史のスタート地点だったことがわかります」と歴史家で作家でもある曹銘宗さんは言う。とりわけスペイン人が占領した1626~1642年は見逃すことができない。。

この短い16年間、極東でのオランダの勢力拡大を防ごうと、スペインは和平島を拠点として台湾北部を占領した。元からの住民である平埔族のバサイ人や中国大陸から移ってきた人たちがいたが、スペイン人が来たことで島に初めて統治者が出現し、基隆の代表的存在だった和平島が世界史の舞台に登場する。

スペイン人に続き、オランダ人、フィリピン人、フランス人、日本人、琉球や朝鮮半島からの人々がこの地を踏む。今は静かなこの島が、かつてこれほど賑わっていたとは想像し難い。

この時期の歴史は埋もれかけていたが、その発掘を始めたのが、スペインから来た歴史家のホセ‧エウヘニオ‧ボラオ‧マテオ(鮑暁鴎)教授だ。教授は台湾大学外国語学科で長年教鞭を執り、すでに台湾国籍を持つ。かつてスペイン人が短期間台湾を治めていたことを教授が知ったのは約30年前、それで初めて台湾を訪れた。興味津々で台湾北部の歴史スポットを回ったものの「何も見つかりませんでした」と言う。

オランダや日本より統治期間が短く、また時代も古いために史料はほとんど残っておらず、この時期の歴史は消失しかけていた。その後、教授は和平島での考古学プロジェクトなど、基隆における数多くの研究を積極的に進め、歴史の痕跡を蘇らせてきた。

彼に続く人もいる。中央研究院台湾研究所で副研究員を務めていた翁佳音さんは、17世紀の台湾史を専門とし、閩南語、日本語、スペイン語、古オランダ語にも明るい。台湾にスペイン人が存在した証拠を、翁さんは音声学と固有名詞学によって明かそうと試みた。

例えば地名「三貂角」は、翁さんの推測によれば、台湾東部を航行したスペイン人が岬を「サンティアゴ」と名づけたことからきており、また「野柳(台湾語でia-liu)」は、スペイン語で「悪魔の岬」を意味する「Punta Diablos」が語源だという。その辺りに暗礁が多く、原住民の襲撃に遭うリスクがあったためとも考えられる。

しかも、翁さんと前出の曹銘宗さんは長年の仕事のパートナーで、幾度も共著で歴史関連書を出版している。基隆市出身の曹さんは、ふとしたきっかけで和平島のフィールドワークにのめり込むようになり、そればかりか、集めてきた歴史的証拠を整理し、1626~1642年の和平島を舞台にした歴史小説『艾爾摩沙的瑪利亜(エルモサのマリア)』を完成させた。

エルモサとは何か。「ポルトガル人とオランダ人は台湾をフォルモサと呼びましたが、スペイン語ではエルモサなのです」と曹さんは説明する。和平島の歴史は、この激動の「エルモサ」時代を抜きにしては語れない。

和平島市場は島で最初に漢人が集落を作った場所にある。

かつて激動の歴史が

曹さんと和平島に渡ってみた。和平橋を過ぎ、漁港の「海産街」に車を止める。橋のたもとに立って東側を眺めると、新しく建てられた社寮橋や、最近話題のテレビドラマ『八尺門的弁護人』によく登場する海浜国民住宅が見える。

和平橋から少し進むと、土地神を祀る福徳宮がある。曹さんによると、この廟の場所は清の時代には渡し場だった。また海産街側には、かつてスペイン人が建てた小さな円型の要塞「聖路易斯堡(サン・ルイス砦)」の遺構がある。後にやってきたオランダ人も戦略的に有利なこの地に「艾騰爾堡(エルテンブルフ砦)」を建て直した。

向こうの海岸線を指して曹さんが説明してくれた。1642年、スペインの勢力拡大を危ぶんだオランダは南部から北部に進軍し、大砲の届かない、八尺門水道の反対側から上陸した。この台湾史上初の国際戦争では最終的にオランダが勝利し、スペインは和平島から撤退した。

諸聖教堂の発掘は、16年間のスペイン統治に関する重要な証拠となった。

最初の漢人集落

古戦場は今や跡形もないが、島の南にはスペイン人による建造物の遺構が残る。

和平島は南端が集落発展の起点だった。調査によると、現在の和平島市場は基隆で最初にできた漢人の集落で、7~8世帯が定住していた。海の向こうは中国大陸の福州なので、最初にここに定住したのは福州からの移民だと考えられる。

鄭氏政権の時代、この海産街は「福州街」と呼ばれていた。曹さんは、基隆名物には福州料理の影響が多く見られると言う。福州魚丸(魚すり身団子)、紅糟鰻(鰻の紅麹揚げ)、鼎辺趖(米粉麺スープ)などがそれだ。

基隆と和平島を結ぶ和平橋は台湾初の海上橋だ。

帝国から最も遠い教会

市場に近い「諸聖教堂」(トドス・ロス・サントス教会)も重要な歴史スポットだ。カトリック修道会のドミニコ会によって建てられた。「諸聖(諸聖人)」という名は、聖人を敬うカトリックの伝統に由来し、それは公式認定された聖人だけでなく、信仰のために命を捧げた多くの無名の信者たちをも指すと、曹さんは言う。

教会の遺構は台湾国際造船の駐車場の空き地にあったのを、ボラオ・マテオ教授が熱心に仲立ちした結果、スペインの考古学者マリア・クルス・ベロカル氏と中央研究院アカデミー会員の臧振華氏によって2011年に研究チームが作られ、この地で国境を越えた考古学プロジェクトが始まった。

ここでは教会の灰白色の土台が見られる。また十字架やベルトのバックルなども次々と発掘され、教会後方には付設の埋葬地も見つかった。20数柱の遺骨の中には、祈るように胸に両手を置いたものもあり、そのうち何人かはヨーロッパ人と鑑定されている。

諸聖教堂の発掘は、消えかけていた歴史に確かな証拠をもたらし、この場所はすでに観光客の訪れる歴史スポットになっている。

和平島地質公園にある蕃字洞。

地質と文化が織りなす舞台

旅のクライマックスはやはり、島北端の阿拉宝湾にある和平島地質公園だろう。公園の入り口から台湾国際造船が遠くに見える。そこの巨大なクレーンを指差し、「サン・サルバドル城は造船所の真下ですよ」と曹さんが教えてくれた。2003年、ボラオ・マテオ教授が何度も古地図を調べ、成功大学土木工学科の李徳河教授に地中レーダー探査を依頼し、城の位置を確定しているのだ。

海辺に続く遊歩道を行くと、大自然が斧を振るったさまざまな奇岩に目を見張る。それらはワシ、ワニ、エジプトのファラオなどの形に見立てられ、「十大守護岩」と呼ばれている。

ここは小説『艾爾摩沙的瑪利亜(エルモサのマリア)』の舞台でもある。今では遠くからしか見ることのできない「千敷畳」「万人堆」といった風景の中で、かつては魚介類をとったり行楽したりした人々の様子が小説には描かれている。

また、砂岩の丘にある洞窟「蕃字洞」の中には、17世紀のオランダ兵や19世紀後半にここを訪れた欧米人の残した落書きがかつて大量にあったことが、伊能嘉矩著『台湾文化志』に写真で残る。この洞窟は「基隆市歴史建築」に指定され、保護のために現在は立ち入り禁止となっているが、曹さんは小説で主人公とヒロインが愛の誓いを交わす場所として登場させた。

終点は、地質公園ビジターセンター3階のカフェ「楽品喜塘」だ。海藻やトビウオの卵など、地元の食材を使った料理や、地元産のアオサの入った十字架ビスケットを味わいながら、小説の情景を思い浮かべてみた。

学術的事実に基づく膨大な記述で小説の虚実の区別はしにくいが、主人公のまなざしになれば、春の丘に咲く野百合や、初夏の海に跳びはねるトビウオ、バサイ族が採る海藻、フランシスコ・ザビエルの祝福によって十字模様ができたと伝説のあるシマイガニなどが見られるかもしれない。

一見、何の変哲もないようなものでも、この地の独特さを物語る。異なる民族、異なる文化を持つ人々がこの地でふれあった証しだ。「和平島の歴史は基隆の歴史であり、台湾の歴史でもある」と曹銘宗さんが高く評価するのもうなずける。小さな島がこれほど豊かな歴史を持つことを、我々はよく知り、大切にしたいものだ。

遊歩道を歩き、海の浸食による独特の風景が楽しめる。

風や波に打たれた砂岩が特殊な景観を作り上げている。

海ぶどう、アツバノリ、アオサといった海藻類の料理は、地元独特の味だ。

和平島で「エルモサ」時代を偲ぶ。