第68回カンヌ国際映画祭で、侯孝賢は新作が高い評価を得て最優秀監督賞を受賞した。この光景は30年前のことを思い起こさせる。台湾の映画界に起きた新しい波、いわゆる「台湾ニューシネマ」が国際映画祭の舞台で大きな異彩を放った頃のことを。
当時、映画によって社会の真実を映し出そうとした監督たちの作品は、台湾だけでなく、世界の映画人に影響を与えた。その力は今もなお続いている。
1982年に楊徳昌(エドワード・ヤン)、柯一正、張毅、陶徳辰の監督4人が作ったオムニバス映画『光陰的故事』、これが台湾ニューシネマの幕開けと見られている。写実的スタイルの同作品は、文学的な手法で作られており、それまでの台湾映画によくあった「健康写実」路線とは大きく異なっていた。また、当時人気の高かったラブストーリーやカンフー、青春ものといった商業映画とも一線を画していた。
この作品に続くようにして侯孝賢、万仁、陳坤厚、王童などの若手監督が、台湾社会の現状を掘り下げた写実的作品を次々と生み出していった。これらの作品に共通した特色は、長回しを多用したスタイル、素人或いは無名俳優の起用、大衆に共通の記憶や一般の人の暮らしを題材としていたことなどだった。
ニューシネマと文学の協力
こうしてニューシネマと従来の映画との間に差が生まれたが、一方、芸術や文学、演劇などの分野でも新たな表現方法が用いられ始めていた。当然、若手映画監督たちも文壇に目を向けるようになり、ニューシネマは文学と共鳴し、写実的題材を追い求めていく。
呉念真、朱天文、朱天心、小野、蕭颯、廖輝英といった若手作家がニューシネマの監督と組んで脚本を書くようになり、そのことで、こうした作家も知名度を上げ、映画会社もそれを歓迎した。こうして、映画監督と文学作家が協同して創作する時代が始まった。
このニューシネマのうねりは80年代中後期にピークを迎え、映画は監督個人のスタイルを強く打ち出したものになる。郷土文学の脚本化作品やモダニズムの作品が多く作られ、農業社会から工業社会へと転換しつつあった当時の台湾社会に目を向けた作品や、中には政治への批判的眼差しを帯びた作品も少なくなかった。まさに台湾の「本土意識」が初めて声を上げたかのようだった。
1989年に侯孝賢監督の『悲情城市』がヴェネツィア国際映画祭金獅子賞に輝くと、台湾映画でも作者主義が確固たる地位を獲得する。そしてそれは、新たな映画美学と映像の世界観をもたらし、台湾映画が大きく飛躍するきっかけとなった。つまり『悲情城市』は、台湾映画史にとっても重要な代表作と言える。
世界の映画界に今なお影響
王耿瑜は、1980年代から黄春明、楊徳昌、侯孝賢、張艾嘉、王小棣、陳懐恩といった監督の映画作りに加わり、台湾ニューシネマのただ中に身を置いていた。1999年から各地の国際映画祭にもたびたび赴くようになった彼女は、海外の映画評論家たちが台湾ニューシネマを懐かしそうに語るのを聞き、考え込まずにはいられなかった。もう30年も前のことだというのに、当時の台湾映画はなぜこんなにも大きな影響力を持っているのか、しかも最近の若い世代の監督までもがニューシネマの作品に啓発されたと語るのは、いったいなぜなのだろうと。
「数年前にも、ある国際的な催しでこんなことがありました。CNEX華人ドキュメンタリー映画祭に出品した30歳代の中国大陸の監督に会ったのですが、その監督は、蔡明亮から侯孝賢の映画までどの作品についても的確に語ってみせるのです。ほかにも国際的な映画評論家たちが、台湾映画に深く感銘を受けたと言うのをよく耳にします」ただ、台湾ニューシネマがこんなにも広く世界に影響を与えたというのに、その運動を起こした当の台湾人監督たちは、自分の作品がそんなにも大きな力を持つとは当時思いもしていなかった、と王耿瑜は言う。
「当時の監督たちは、まだ大監督などと呼ばれておらず、映画を作るにも資金集めに苦労していましたから、まして映画祭で受賞できるなんて思ってもいませんでした」王耿瑜は、侯孝賢監督の『恋恋風塵』を映画祭に出品した頃の様子を思い出す。当時の台湾の金馬賞は、行政院新聞局によって審査が行われていた。出品の締め切りが目前に迫っているというのに、その日の朝にやっと編集作業が終わり、みなでフィルムを抱えて現像所に送り届けた(当時はまだフィルムの時代)。そして現像が1本できるごとに助監督が現像所から持って出てくるのを、みなで交替で新聞局まで送り届けた。新聞局のほうでは審査員がフィルムの到着を待っていたからである。だが『恋恋風塵』は、その年の金馬賞では一つも賞を取れなかった。
手作り映画の時代
ある年、香港の許鞍華(アン・ホイ)監督が、侯孝賢の撮影チームを訪ねてきたことがあった。チームはちょうど台湾北部の九份で『悲情城市』のロケを進めていた。当時の九份はまだ開発が進んでおらず(映画によって九份は人気スポットになった)、交通の便も悪くて、許鞍華は九份までの長い道のりを車に揺られてやっと到着した。そこで彼女が見たのは、山の斜面を遠くから撮影するシーンの苦労だった。トランシーバーなどもないので、スタッフが伝達のために斜面を駆け上ったり下りたりを繰り返しているのである。許鞍華は後に当時の様子を思い返し、「国際賞を受賞したこの映画は、こんな風にして作られていたのよ」と語っている。
「当時の映画制作は、まったくの手作りの時代でした。こんなに大きな創作エネルギーの積み上げで作られたのですから、海外の映画人を驚かせたのでしょう」と王耿瑜は言う。こうして話していると、彼女は侯孝賢とともに『恋恋風塵』を撮影した時のことを次々と思い出すようだ。当時は、カメラがフィルムを巻く音が大きく、撮影現場でその音を拾ってしまうということで、登場人物のセリフの多くは撮影後に改めてスタジオで録音していた。ところが、重要な登場人物の一人、李天禄はすでに高齢で、再び録音室に入ってもらうと言うわけにいかない。そのため侯監督は撮影と同時に録音を行うしかなかった。そこでカメラの音を小さくするため、スタッフはどこからか布団を持って来て、カメラをくるんで撮影したのである。「ほんの30年まえのことですが、現在の映画制作のレベルから見れば、想像もできないでしょう。つまりは、良い映画を作るには、これらのこと(技術的なこと)はあまり関係がないということです」
ニューシネマの10年後には、羅維明監督が台湾公共テレビ(公共電視)の撮影チームとともに『旧影重温』というドキュメンタリー作品を作って回顧し、20年後には蕭菊貞監督が、やはりドキュメンタリー『白鴿計画(白鳩計画)』でそれを捉え直している。そして今やニューシネマから30年が過ぎたが、過去の記憶も、世界の映画人の反響も、いまだに衰えることはない。そこで王耿瑜は、これら世界の人々の感動を記録し、過去と現在を結びつけるドキュメンタリーを作りたいと思うようになった。
台北市文化局の援助のもと、王耿瑜は制作チームとともに、ヨーロッパ、アメリカ、日本、中国大陸、香港などを訪れ、50名に上る映画関係者やアーティストにインタビューして台湾ニューシネマとの出会いを語ってもらった。こうしてロードムービー風のドキュメンタリー『光陰的故事―台湾新電影』が誕生した。
台湾ニューシネマの意気込み
2015年3月に公開された『光陰的故事―台湾新電影』は、台湾ニューシネマが世界の映画界にもたらした価値を改めて回顧している。それが映像革命をもたらしたというだけでなく、さらに重要なのは、台湾の自覚とアイデンティティーを引き起こしたという事実だ。
『光陰的故事―台湾新電影』は、第71回ヴェネツィア映画祭でのノミネート作品のうち、唯一の台湾映像作品となった。同映画に登場して台湾ニューシネマを語るのは、侯孝賢、柯一正、王童、呉念真といったニューシネマを代表する監督だけでなく、さらに若い世代の監督である魏徳聖、陳駿霖、また、日本からは映画評論家の佐藤忠雄、監督の是枝裕和、三池崇史、俳優の浅野忠信、ヨーロッパからは監督のオリヴィエ・アサイヤス、評論家及びフェスティバル・キュレーターであるトニー・レインズ、マルコ・ミュラー、そして中国大陸からも、監督の賈樟柯、田壮壮、王兵、楊超、アーティストの劉小東、艾未未など、そうそうたる顔ぶれだ。
インタビューは1年5カ月にわたった。台湾ニューシネマに対する印象や評価、見方などを語ってもらい、それらを編集して優れたドキュメンタリーとして完成させただけでなく、書籍としてもまとめた。時代を越えて輝き続ける価値と、当時の台湾映画界の意気込みを知ってほしいと願っている。
これら海外の「台湾映画ファン」は、台湾ニューシネマを深く分析している。王耿瑜は、「多くの人は、まず侯孝賢監督の映画を知り、そこから当時の台湾の社会情勢などに興味を持つようになっています。映画が文化輸出に大きく貢献したということです」と言う。また、ニューシネマの作品は、多くが落ち着いたスタイルで、リアリズムに徹しており、こうしたスタイルがヨーロッパの観衆の好みに適したと言える。
文化輸出、映画外交
とりわけ侯孝賢の作品の、一歩引いたような映像スタイルや、俳優の大げさでなく自然な演技などは、ヨーロッパ人の生活リズムやスタイルに似通ったものがあり、そのためヨーロッパの人々は侯孝賢の作品を好むのかもしれない。「かつて出会った70歳、80歳といったフランス人のブルーカラーも、侯孝賢や楊徳昌などについて私に話しかけてきました。彼らは文化人とは限りません。このことからも、台湾映画が深くヨーロッパに浸透していることがわかります。ほかにも、かつて『フラワーズ・オブ・シャンハイ(海上花)』がパリで上映された時には、シャンゼリゼ通りの映画館の前に行列がずらりと伸びて、パリでも珍しい光景を作り出していました。ちょうどその場にいた私は、すぐ写真に撮って侯監督に見せなければと思ったほどです(笑)。こういうことは台湾では考えられませんでした。『悲情城市』は例外として」と、王耿瑜は当時を振り返る。
事実、当時の台湾では、ニューシネマの作品は映画市場全体のわずか10%ほどしか占めておらず、大きな興行成績を生んでいるとは言えなかった。また、台湾の多くの人が楊徳昌や侯孝賢といった監督の名前や作品に注目するようになったのは、彼らが国際映画祭で受賞したというニュースが台湾にもたらされて以降のことだった。
アメリカのトルーマン大統領は、「映画の影響力は大使館のそれより巨大だ」と語ったことがある。台湾ニューシネマの持つ価値を養分にたとえるなら、それは世界の無数の映画人の血となり肉となってきたと言えるだろう。そして同時に台湾文化の輸出にも大きく貢献した。ニューシネマの持つこうした力を、私たちは現在再び、映画人による分析を通して再認識できる。もし台湾映画が今後再び世界に影響を与える力を持つことを願うなら、これらの中にその秘密が見つかるかもしれない。
王耿瑜によると、世界各国の映画人は台湾ニューシネマの話になると非常に詳しく、熱心に語るという。多くの文化人や知識人が、台湾ニューシネマによる啓発を人生における重要な経験と位置付けている。(荘坤儒撮影)
李天禄(中央)が生前出演した侯孝賢監督の『戯夢人生』は、その長回しの技法で台湾の映画言語を大きく変えた。同作品は1993年、カンヌ国際映画祭審査員賞を受賞した。
1980年代、映画製作の環境は厳しかったが、そうした中からニューシネマ運動の流れが起きた。映画人は国際映画祭で台湾の創作エネルギーを見せつけ、今も世界の映画界に影響を及ぼし続けている。写真は『尼羅河的女児(ナイルの娘)』の撮影風景。
1980年代、映画製作の環境は厳しかったが、そうした中からニューシネマ運動の流れが起きた。映画人は国際映画祭で台湾の創作エネルギーを見せつけ、今も世界の映画界に影響を及ぼし続けている。写真は『尼羅河的女児(ナイルの娘)』の撮影風景。
1980年代、映画製作の環境は厳しかったが、そうした中からニューシネマ運動の流れが起きた。映画人は国際映画祭で台湾の創作エネルギーを見せつけ、今も世界の映画界に影響を及ぼし続けている。写真は『尼羅河的女児(ナイルの娘)』の撮影風景。
1980年代、映画製作の環境は厳しかったが、そうした中からニューシネマ運動の流れが起きた。映画人は国際映画祭で台湾の創作エネルギーを見せつけ、今も世界の映画界に影響を及ぼし続けている。写真は『尼羅河的女児(ナイルの娘)』の撮影風景。
1980年代、映画製作の環境は厳しかったが、そうした中からニューシネマ運動の流れが起きた。映画人は国際映画祭で台湾の創作エネルギーを見せつけ、今も世界の映画界に影響を及ぼし続けている。写真は『尼羅河的女児(ナイルの娘)』の撮影風景。
侯孝賢の『童年往時 時の流れ』
陳坤暑の『小畢的故事(少年)』
楊徳昌の『牯嶺外少年殺人事件』