
2018年、全長400キロ余りに及ぶ長い遊歩道が「樟之細路」と命名された。地図に初めて出現したこの道は、主に客家集落を抜ける台3線(省道3号線)に沿って、古道や農業用道路、山道などをつないだものだ。この辺りはかつて天然のクスノキ林が広がり、樟脳生産のために伐採されていた。19世紀には、台湾を「樟脳王国」として世界にリンクさせた道だったのだ。
だが、やがて同産業の衰退に伴い、クスノキ林は背の低い茶畑や果樹園に取って代わられた。各集落をつないでいた古道も、台3線となってアスファルトが敷かれたところもあったが、使われない道は大自然に覆われてしまった。
それらの道を、千里歩道協会の人々が半年余りかけて再び探し出した。山や谷を越え、埋もれていた道や物語をつなぎ合わせたのだ。

「樟之細道」沿道では客家の古民家をよく目にする。
ロマンティック街道
「樟之細路」の英語名はRaknus Selu Trailという。「Raknus」とは、タイヤル語やサイシャット語でクスノキのこと、「Selu」は「細路」を客家語読みしたもので「小道」という意味である。名前からも、先住民や客家など多様な文化にまつわることがわかる。かつては土地や経済的利益を争って衝突が繰り返されたが、今日では協力して暮らしている。「樟之細路」は、台3線沿いの、桃園龍潭から台中東勢までの古道や農業道路、小道をつないだ道で、新埔、関西、芎林、竹東、横山、北埔、峨嵋、南庄、三義、頭屋、獅潭、公館、大湖、卓蘭など、客家の10数の村を通る。道幅は狭いが、沿道にはそれぞれの豊かな文化が存在する。
蔡英文総統が総統選で掲げた「ロマンティック台3線」プランは、ドイツのロマンティック街道を参考に、山間を走る台3線を、桃園、新竹、苗栗、台中の観光の目玉にしようというものだった。「樟之細路」は、そのプランのいわば下位項目で、純粋な遊歩道作りを目指した。歩くことでさらに深く村に分け入り、自然に親しんでもらうのがねらいだ。
一方、2006年設立の千里歩道協会は、長年、台湾全土で遊歩道の開設に取り組んできた。2011年に全長3000キロ余りの台湾一周ルートを完成させた後、次の目標を長距離の遊歩道に置いたのだった。

調査の過程では、古地図を参考に消失した古道を探した。
山を越え谷を越え
「『樟之細路』という道が存在したわけではないし、龍潭から台中まで続く道などもなく、まして道というものは人の使い方で変化します。先住民や漢人が開墾し、やがて日本統治時代、国民政府と目まぐるしく変化してきました」と、千里歩道協会の副事務局長である徐銘謙は言う。
古道をよく知るお年寄りの提案で、登山愛好家たちがよく歩く古道をつなごうと当初は考えた。だが、それらの多くが一般車道や産業道路となっていることがわかり、遊歩道には向いていなかった。そこで仕方なく、自分たちで山に入り、ルートを探し出すことになった。
まず、かつての『台湾堡図』(日本統治時代に作られた地形図)を元に、さらに古今の地図を重ね合せてルートを探ったり、使われなくなった古道がないか地元のお年寄りに尋ねたりした。それでもわからなければ、自分たちで探し出すしかない。全ルートの調査に関わった黄思維によれば、4人ほどが1組になって、3人が山に入り、1人が車で送迎を担当、山での探索中、運転係は近隣の村で住民とおしゃべりしながら地元に伝わる話を聞き出した。山での探索は、稜線やタケノコ採りの道を歩いたり、道がない時は山刀で道を切り開き、後ろに続く者が木に目印のテープを結びつけていった。藪をなんとか抜けると目の前は崖だったり、民家の裏庭に出てしまうこともあったという。まるで昔の冒険談を聞いているかのようだ。山奥で出会った人に、車で送ってもらったり、温かい麺をごちそうになったりしたこともあり、そんな時は人の温かみが身にしみた。
すでに失われた道を再現したことは、失われた文化の掘り起こしにもつながなった。徐銘謙は「老官道」を例に挙げる。それは、日本統治時代に苗栗大湖と卓蘭を結ぶ主要道路だったが、やがて産業道路が開通すると、多くが使われず荒廃してしまった。だが、1904年に日本人が作成した『台湾堡図』や、ほかの地図では、この「老官道」がはっきりと示されている。村民の話では、かつて教師をしていたお年寄りが子供の頃、老官道を通学路にしていたという。「それは、かつて最もよく使われた道でしたが、後に台3線の開通で使われなくなったのでした。我々は、この老官道を再現して樟之細路に組み込むことにしました」と徐銘謙は言う。

古道沿いには、地域の住民を守る小さな伯公廟が多数ある。
地元の物語を発掘
道は人が歩いてきたものだから、人のいるところには物語がある。樟之細路でもあちこちに、いにしえの人々の足跡が残されていた。
千里歩道協会の探索では、伯公廟(土地神を祀る祠)や茶畑、灌漑用水路など、多様な文化的スポットの発見もあった。樟脳寮坑や上樟樹林などの地名は、当時の樟脳産業と関係があることがわかるし、漢人が入植した際に先住民との境界に設けた隘勇線(柵や砦など)も残っていた。
72号線脇の出磺坑(苗栗公館郷)は、黄思維によれば、台湾で最も早くに石油が発見された場所だったという。1877年発掘のこの台湾初の油田は、世界で2番目の油田でもあった。周辺には今もトロッコ道や重機整備庫、宿舎、掘削設備が残り、当時の盛況が偲ばれる。
その附近の出雲古道(出磺坑‐関刀山)と出関古道(出磺坑‐関刀山)は、樟之細路の主要ルートに組み込まれた。近くの法雲寺に上ると大湖が見下ろせる。この辺りは客家が入植した頃、先住民と衝突の絶えなかった地域で、さらに足を伸ばせば、李喬の大河小説『寒夜』の舞台となった蕃仔林(現在の苗栗県大湖郷静湖村)もある。
続けて北上し、苗26県道の脇にある「楔隘古道」(獅潭‐公館)を目指す。古道に着くと黄思維が説明してくれた。古道の石段に2ヵ所、5センチほどへこんだ部分があるが、これは大きな岩にノミを差し込んで割った跡だという。石段を登りつめると、先人が客家語で残した「上りは鼻に触り、下りは髻に触る」という言葉が掲げられている。この急な石段を上り下りするさまを形容したもので、先人の苦労が偲ばれる。
次は新竹関西の「石光古道」だ。かつては石岡子(現在の石光地区)と龍潭を結ぶ農業上重要な道だった。この辺りの石段に丸い石が多く使われているのは、黄思維によれば、この辺りは元は河床で、こうした河原の石が大量にあったのを用いたものだという。楔隘古道が大きな岩を割って用いたのと同様に、当時の人が身近な材料を用いたことがわかる。ここの石段の段差がやや小さいのも、当時の人が天秤を担いで上り下りする際に揺れが少ないように考えられたものだという。

法雲寺から太湖を望む。ここはかつて客家と先住民族が衝突した場所だが、今は各エスニックが協力し合って暮らしている。
自らの歩道は自らで
こうしたことを知ることで、自然とともにあった先人の暮らしがうかがえる。千里歩道協会でも歩道の「手作り」を進めてきた。徐銘謙はその取り組みの意義をこう説明する。もし業者に工事を頼めば、花崗岩やセメントを用いた頑丈なものを作ることになる。だが、こうした材料は、実は大自然の中では意外ともろく、破損によって再び工事が必要となる。一方、「手作り」が大切にするのは、身近な材料を用い、場所に応じた施工と定期的な整備を行うことだ。
「場所に応じた施工」をマニュアル化するのは難しい。そこで協会では、施工ボランティアに歩道の地形や地質をじっくり観察してもらう日を設けることにした。実際に石を動かしたり運んだりして、まるで元々そこにあったような位置や角度に石を置くことを学んでもらう。
我々もそれに参加してみた。その日は「渡南古道」の修復だった。ルートの一部が斜面からの雨水で崩れていた。臨時に竹を渡して通れるようにしていたのを、基礎部から石を積み上げて直すことにする。まず徐銘謙と専門の職人が斜面の状況を見ながら施工方法を相談する。その後、二人の導きで、適当な大きさの石を探して回った。基礎部を作るのに適した形や大きさが必要だ。また、深さや幅を考えて基礎部を掘り、置いた石も角度をいろいろ変えながら安定した位置を見つける。その後、小型の石を間に詰めていき、その隙間に大量の砂土を埋めてしっかりと固める。上から見ると普通の道と変わらないが、側面から見ると、補われた部分だけ、さまざまな石がひしめき合っているのがわかる。
河原の石を用いたり、切った木を路肩に使ったりする場合もあるが、コンセプトは同様だ。大自然は規格があるわけではないので、自然に沿った方法を自ら見出さなければならない。「こうしたやり方は世界的潮流であり、また昔の人がやっていたことでもあります」と徐銘謙は言う。
今回、歩道修築に加わったボランティアには、台湾在住5年になるスウェーデン人エンジニアもいれば、桃園や宜蘭、彰化、台南などから来た人もいた。初心者もベテランもいっしょになって、石をわずか数歩分動かすのにも汗みどろになる経験をする。こうして、自分とこの道との、大地とのつながりが生まれる。多くが再びボランティアに加わるのもそのせいだろう。徐銘謙も「この経験でやみつきになるのですよ」と言う。
7月中旬、樟之細路を国際的にも発信しようという備忘録の調印が行われ、その記者会見でエコロジストの作家、劉克襄が語ったこんな言葉が心に残った。台3線、中山高速、北二高速などの開通はスピードを追求し、経済発展をもたらしたが、2018年の樟之細路はそれらとは異なる。「このスローな道は、台湾社会が求める生活が変わりつつあることを証明している」という。
樟之細路は、「ロマンティック台3線」プロジェクトの中でも最もロマンティックなものと言えるだろう。地域に散らばる物語をつなげるために、未知のルートを探ろうというものであり、重い石を一つ一つ、人の手で積み上げる手作りの道だからだ。千里歩道の事務局長である周聖心は「細道ですが、大道です」と言う。それは「スピード」から「スロー」へと、異なる価値観にいざなう道なのだ。今後は、さらに多くの市民が参加することを期待したい。

出磺坑には当時の油田掘削設備が残されており、近くでは油田文化産業集落の跡地も見られる。

古道踏査の過程で、地域の物語も発見された。石光古道の近くに隠れるようにたたずむ石光天主堂。有名な関西天主堂はこの教会を雛形として建造された。

林旻萱撮影

遊歩道の整備に当たっては、地域の気候や地質、生息する生物の習性なども重視している。

工具を背負って遊歩道の整備に出かける。遊歩道の「手作り」は一般の建設工事とは異なり、人の手と身近な材料を用いて行われる。

工具を背負って遊歩道の整備に出かける。遊歩道の「手作り」は一般の建設工事とは異なり、人の手と身近な材料を用いて行われる。

新竹県横山郷豊郷村の茶亭。茶でもてなす文化は、台湾の人情味を感じさせる。

幅の狭い道だが、そこには多くの物語があり、人々に発見されるのを待っている。