台湾大地震、中華航空機の澎湖と大園の事故、林肯大郡マンションの倒壊、台風被害、そして先頃のインド洋大津波やエルサルバドルの大地震など、事故や天災は後を絶たない。そうした中、普通の市民が赤いユニホームに着替え、人命救助に当たっている。
常に災害現場の第一線で救助活動をする「赤いユニホームの天使たち」は、絶望していた人々に希望をもたらす。彼らは、世界に知られる中華民国捜救総隊の隊員たちである。
台北時間の2004年12月26日午前8時59分、インドネシアのスマトラ沖でマグニチュード9.3の大地震が発生し、未曾有の大津波が起きた。津波はインドネシア、タイ、マレーシア、インド、スリランカなど、広範囲の海岸を襲った。
この潜水ヘルメットだけで20万台湾ドルするが、各界からの寄付金によって装備も充実し、順調に救助活動ができるようになった。
黄金の72時間以内に
12月26日、クリスマス翌日の日曜の朝、桃園で照明メーカーを経営する中華捜救総隊長の呂正宗さんはまだ残業していた。その日の午後、テレビが大津波のニュースを伝え、呂正宗さんは隊員からの電話で知らされた。同じ頃、台北近郊でコンビニチェーンの運転手をしている国際課の陳信宏さんも八徳本部に向っていた。わずか6時間の間に台湾各地に住む幹部が本部に集合し、インターネットを使って、宗教団体や国連の発する情報に見入っていた。
災害発生直後の「黄金の72時間」の間に捜索を始めるために、呂正宗さんは、直行便があり反乱軍の活動などのないタイを最初の目的地に選んだ。
国際課は手分けをして、航空券を提供してくれるスポンサーを探し、国際救援経験があって機器の操作ができる隊員を集めた。高雄で船舶機械メーカーの技術者として働く女性隊員の黄淑娟さんは、知らせを受けてすぐに参加を決めた。こうして初日の午後の間に、百名に上る隊員が出動の意向を示した。
翌27日、陳信宏さんは仕事の代りに務めてくれる人を探し、黄淑娟さんは休暇を取り付けた。そして隊員たちは総重量4500キロに上る装備や食料、飲料水などを用意して荷造りした。
「被災地に到着したら、現場までの交通手段はもちろん、あらゆる物資を自分たちで用意しなければなりません。決して現地の負担になってはいけないのです」と総隊長の呂正宗さんは言う。
その日、高校3年生になる黄淑娟さんの息子は、母親を心配するあまり腹を立てて部屋にこもっていた。そんな息子に彼女は「お母さんは自分が何をすべきか分かっているの。将来はあなたたちにも、私のように思い切り自分の理想のために頑張って欲しいのよ」と話した。決意を固めた母親を、身長180センチもある息子は抱きしめて祝福した。
台湾大地震の後、各界から次々と寄付金が寄せられ、捜救総隊はさまざまなハイテク器材を備えることができた。写真左は中華航空機澎湖事故の時に使用した水中ロボット、右は水中光学探査装置だ。
千の眼と千の手
28日の正午、中華航空がスポンサーとなり、中華民国捜救総隊の35人の隊員は、国旗を手にタイへ飛んだ。プーケット島に到着すると、あらかじめ連絡してあったタイ在住台湾企業協会の会長がトラックや通訳者を連れて迎えに来ていた。一行は真っ直ぐにプーケット島の救援センターに向った。中華民国捜救総隊は、海外の救助隊の中で最も早くタイに到着したため、タイ政府もこれを非常に重視した。タイの副総理は、自ら中華民国捜救総隊との会議に出席し、プーケット湾とパンガー湾での捜索を任せることを決め、軍用トラック4台とヘリコプター2機、そして600名の兵士を応援に出すことを決めた。
呂正宗隊長はタイ政府に感謝して「600名ということは、まさに千の眼と千の手です。仏経に書いてある通りです」と語った。
長さ8キロ、幅2キロにおよぶ津波被災地には、見渡す限り遺体が横たわっていた。隊員たちもこれほど多くの遺体を一度に目にするのは初めてだった。炎天下の遺体による水源汚染で感染症が広がるおそれがあるため、捜救総隊は午前5時に点呼して活動を開始し、朝8時に集まったタイの兵士たちを感動させた。夜も暗くなるまで働き続け、ヘルメットのライトを頼りに戻る日々だった。何とか自分たちの力を最大限まで発揮したかったのである。
死者を尊重し、隊員は蝿が群がる中で遺体を捜索した。嗅覚を保つためにマスクもつけない。呂正宗隊長によると、マスクをしないのは救援の効率を高めるためで、また被災地は海に面した平地であるため病原菌を吸い込む心配がないからだという。
Taiwan Rescueと中華民国捜救総隊の文字が入ったユニホームを着、中華民国の国旗を立てて活動する彼らは、規律正しく、被災者には優しく接すると、タイのマスメコミは絶賛した。現地の新聞は彼らの活躍を大きく報じ、常に中共の圧力にさらされている台湾が大いに注目された。
国際救援という面では、エルサルバドル大地震の方が困難だったと、陳信宏さんは話す。エルサルバドルでの救援は、中華民国捜救総隊にとって初めての海外活動だった。隊員たちはどんな困難にも立ち向かうが、国際救援で最も難しいのは「どうやって被災地に行くか」だ。特に航空券を提供してくれるスポンサー探しと、緊急のチケット手配が難しい。
エルサルバドル大地震は年末のクリスマス休暇に発生した。エバー航空が航空券を提供してくれたが、ロサンゼルスからエルサルバドルに向う航空機は満席だった。幸い慈済会が力を発揮し、座席を予約している旅行者一人ひとりに電話をかけて席を譲ってもらったのである。
エルサルバドルの被災地は分散していて、瓦礫の下の捜索となったため活動は困難を極めた。彼らはまず目視で下敷きになっている被災者を探し、最後に人命探査装置などを使う。探査装置は、わずかな音や振動でも影響を受けるため、補助的にしか使えない。
エルサルバドルで、彼らは台湾大地震に駆けつけてくれたメキシコの救助隊と再会し、互いに親指を立てて称えあった。
台湾大地震の後、各界から次々と寄付金が寄せられ、捜救総隊はさまざまなハイテク器材を備えることができた。写真左は中華航空機澎湖事故の時に使用した水中ロボット、右は水中光学探査装置だ。
鬼の隊長
中華民国捜救総隊は1981年に成立、もとの名称は山難捜救チームと言い、台湾で最初の民間レスキュー隊だ。この組織を語る時、忘れてはならないのは呂正宗隊長の存在だ。
001号の腕章をつけた呂隊長は軍の出身だ。国軍谷関山岳訓練センターと合歓山寒地訓練センターの教官として軍の特殊部隊を訓練する鬼教官として知られていた。登山を愛する彼は、退役後、同好と登山隊を作り、山岳経験が豊富なことから遭難事故が起きるたびに救助を頼まれた。
「これも神のお導きです。最初の何回かの捜索で無事に遭難者を救出でき、たいへんな満足感を得ることができたのです」と呂正宗さんは語る。こうして人命救助の喜びを知り、本格的に救助活動に取り組むこととなった。
メンバーが捜救総隊に入隊したきっかけはさまざまだ。教育訓練教官団団長である盧錦鴻さんは、アマチュア無線に熱中して働こうとしない弟がきっかけとなった。戒厳令の時代、弟は捜救総隊に入れば無線が自由に使えると思って入隊したところ、そこで初めて生きる目標を見出し、兄の盧錦鴻さんも引き入れたのである。
登山愛好者が結成した台湾初の捜索救助隊だが、活動の場は社会の必要に応じて拡大し、山の事故から水の事故、船の遭難、航空機事故、そして地震や土石流へと広がった。規模も当初の15人から全国に5つの連隊と87の分隊を持つまでになり、隊員数は万に上る。基本訓練を済ませた隊員は3000余人、女性隊員も100人を超える。
捜救総隊の潜水訓練は専門性が高く厳しい。軍や警察から訓練を依頼されることもある。
台湾大地震の痛み
設立から20余年、彼らの最大の挑戦は台湾大地震だった。全隊員が15日間24時間体勢で交代しながら生還者を捜し、のべ1万人以上が出動した。余震が続く中で、彼らはブルドーザーで倒壊しかけた建物を支え、ロープを身体に縛り付けて崩れ落ちた建物に入り、被災者を救い出した。建物の外では、別の隊員が水を入れたペットボトルを見つめ続け、少しでも波が立ったら、ホイッスルを吹いて中に余震を知らせた。
「崩れた建物が揺れる中で逃げ出すのは恐ろしいものでした」と話すのは、2人の息子とともに捜救総隊に加わっている楊昌明さんだ。息子たちのことは心配ではないのかと尋ねると、楊さんは、現場に到着したら捜索と救助に全神経を集中しなければならないので、他の心配をしている暇はないと言う。楊昌明さんの一家は、台北県中和市の夜店街でフライドチキンを売っていて、行列が出来る店として知られている。店が閉まっている時は、一家そろって救助に出ているのである。
先進国のレスキュー隊がさまざまな器材を有しているのと比べると、素手と勇気が頼りの中華民国捜救総隊のメンバーは、力が及ばないことに心を痛めた。
「あれほどの高温の中で一週間以上経ってから掘り出された遺体が、まだ腐敗していないのを見ると、長い間救助を待っていたことが分かり、胸が痛みました」と台湾大地震を思い出し、呂正宗隊長は苦痛の表情を浮かべる。
しかし台湾大地震の後、慈済基金会と日本の友人が、各種の先端器材を買うための資金を寄付してくれ、捜救総隊は国際レベルの救助隊へと生まれ変わった。
インド洋大津波の被災地で、赤いユニホームの中華民国捜救総隊は一糸乱れぬ行動と苦難を恐れぬ態度で現地で賞賛された。
鉄の規律
海外でも国内でも、人命救助活動には並外れた勇気と専門の技術や設備が求められるが、それを支えるのは厳格な規律管理と業績考課だ。以前、ある企業の管理職が隊員になったが、隊長から皆にお茶を入れるよう命じられたことに不満を抱き、脱退を促された。また、あるベテラン教官は隊の許可を得ずに制服を着てテレビの探検番組に出演し、注意されても止めなかったため除名さられた。災害現場で命令に従わない者や、市民からお礼の金品を受け取った者なども全て除名される。
以前は、救助のお礼にと差し出される祝儀を断れず、中のお金は返して赤い袋だけ受け取って皆の記念にしていたが、やはり誤解を生じやすいというので、今は祝儀袋も受け取ってはならないという明文の規則がある。
「求められるのは奉仕の精神でヒロイズムではありません」と隊長の呂正宗さんは、救助に大切なのはチームワークで、一番悪いのは英雄的行為だと言う。
教官たちは常に「人を助ける前に、まず自分の安全を確保せよ」と言い聞かせ、自らを省みないヒロイズムは良くないと教えているが、救助という仕事は確かに危険を伴うと呂隊長は言う。――海に潜れば海流に流される可能性があるし、急激に浮上すれば肺が破裂してしまう。2004年の台風の時、新竹土場で大規模な土石流が発生し、急斜面の産業道路が200メートルにわたって幅15センチに狭まってしまった。隊員たちは暗闇の中を手探りで進んだが「翌朝戻る時にその断崖絶壁を見て、よく生きていたものだと思いました」と黄淑娟さんは言う。
最も危険だったのは1997年に発生した林肯大郡マンションの倒壊事故だ。中華民国捜救総隊の隊員はゴムボートに乗って水害の汐止に入り、林肯大郡の基礎部分が地滑りを起こしている最中に建物内部へ入っていった。マンションは大きく傾斜し、視覚が錯乱して真っ直ぐに立てない状況である。その時、本来なら現場の外で指揮を執る呂正宗隊長は大きな危険を感じ、隊員に万一のことがあったらいけないと、3日3晩にわたっていつ崩れるか分からない建物の中で指揮を執り続けた。連続70時間、眼を閉じて休むこともなく、食事もすべて外から運んできた。「中にいる方が元気が出ましたよ」と呂隊長は笑う。
かつて軍の山岳訓練教官だった呂正宗・総隊長(前)は中華民国捜救総隊の中心的人物であり、鬼の教官としても知られている。(林格立撮影)
強い心臓
人命救助の仕事には勇気と無私の精神、そして「強い心臓」が必要だと隊員の楊昌明さんは笑う。楊さんが初めて出動した時、頭蓋骨が押しつぶされた遺体を運ばなければならなかった。当時は密封できる遺体用の袋などなく、遺体を背負って運んだ楊さんは全身血まみれになったという。「吐き気を懸命に抑えましたが、家に帰って3日間何も喉を通りませんでした」と話す楊さんは、仲間が励ましてくれなかったら、とっくに脱退していただろうと言う。
救助活動では、生還者でなければ遺体と直面することになる。「恐いなら出動しない。出動したら恐がらない」というのが鉄則だ。時には、腐敗して異臭を放つ遺体と向き合うこともある。インド洋大津波の被災地で、黄淑娟さんは頭を空っぽにして、いつも通り食事をとり、遺体を搬送し続けた。桃園大園での飛行機事故の時には、深夜でゴム手袋も手に入らなかったため、隊員たちは素手でばらばらになった遺体を拾い集めた。「外科医と同じで慣れるものです。それに死者は生きている人より恐くありませんよ」と語る呂正宗隊長は、生と死をありのままに受け入れている。
しかし隊員たちのほとんどは、遺体に触れ、衣服に血が滲みこんだりするためか、微生物に感染してたいへんな痒みを経験する。「赤いぶつぶつができて痒くてたまらないのに、触れると突き抜けるような痛さを感じるのです」と呂正宗隊長は言う。
中和市の夜店街でフライドチキンを売る楊昌明さんは、災害が発生すると店を閉めて二人の息子とともに救助に向う。(林格立撮影)
忠と孝は両立せず
人命救助の仕事は、一本の電話で即刻出動しなければならず、時には大晦日も正月もない。隊員たちは、家庭とのバランスをどう保っているのだろう。
呂隊長は、人の時間は有限なのだから、何かをすれば他の何かが犠牲になるのは当然で、家庭との両立は不可能だと言う。妻や夫の理解が得られないという隊員がいると、多くの人は活動をやめるよう勧めるが、呂隊長は逆に、人助けをしたいという思いを貫くべきだとアドバイスする。脱退したら悔いが残り、そうした不満を抱いていると家庭もうまくいかないからだ。呂隊長自身は「度量のある妻」を持ち、澎湖の飛行機事故の時には37日も家に帰れなかったという。
20年余り、常に死と隣り合わせの活動をしながら、捜救総隊はこれまで一人も殉職者を出していない。唯一の不幸は、台湾大地震で曾秋萍さんが救助に当たっていた時、10歳の息子さんが交通事故に遭い、植物状態になってしまったことだ。
ロープを使って高所から降り、高いビルから抜け出し、絶壁をよじ登る。中華民国捜救総隊の隊員になりたければ、男女に関わらず厳しい訓練を乗り越えなければならない。(薛継光撮影)
地獄を恐れない
林肯大郡倒壊の時、1階は地下に沈み、2階は高さ30センチにまで押しつぶされてしまった。そうした中で7人以上の男性隊員が今にも崩れそうな狭い空間に入り、スコップと手を使って1人の女性の遺体を掘り出した。
大津波の被災地では、言葉は通じないものの、隊員たちは心の中で「私たちは台湾から来た救助隊です。今あなたをきれいにして連れて帰りますよ」と遺体に語りかけたという。そして一体一体に敬意を表し、遺体の両手を胸の上に置いた。
タイを去る日の夕方、小雨が降り始めた。軍用トラックの荷台に乗った隊員の中には、薄暗くなった被災地で、何人かの人が手を振ってさよならと言っているように感じた人もいるという。「ここまでやれば魂も満足してくれるはずです」と呂隊長は言う。
人命を救う義勇と仁愛の精神で中華民国捜救総隊の隊員たちは赤い衣の菩薩となり、地獄へと飛び込んでいく。
ロープを使って高所から降り、高いビルから抜け出し、絶壁をよじ登る。中華民国捜救総隊の隊員になりたければ、男女に関わらず厳しい訓練を乗り越えなければならない。(薛継光撮影)
1999年9月21日の台湾大地震の時、中華民国捜救総隊の隊員は素手と情熱を頼りに、倒壊した建物をショベルカーで支えて建物の中へ入り込み、危険を冒して生存者を捜した。
被災地を訪れる時は各種の救助器材の他に、食料、飲み水、寝袋などの生活用品もすべて持っていく。被災国の負担を増やしてはならないからだ。