台湾の1平方インチの静寂
数カ月後、石が戻ってきた。范欽慧はもちろんその石に、台湾のクワイエット‧トレイルが見つかるようにと願いを掛けた。
ヘンプトンの『1平方インチの静寂』にある写真は台湾の太平山のヒノキ林に似ていた。そこで彼女は気づく。ヘンプトンが魅せられているのは手つかずの自然にある、最も純粋な生命の本質なのだと。だからこそ彼は「静寂とは無音のことではなく、万物の存在だ」と言っているのだ。
そこで范欽慧は願掛けした石を持って太平山に行き、古い知り合いであり、羅東林区管理処の保護管理員でもある頼伯書に、石のことを話した。すると頼伯書は翠峰湖の環山登山道に彼女を連れて行った。翠峰湖は范欽慧が18歳の時に「言葉に表せないほど美しい」と感じた山上の湖で、湖のほとりから登って行くとノボタンやショウジョウハグマなどの野草が咲いており、ヤブドリ、タイワンキンバネガビチョウ、カンムリチメドリといった台湾固有種のさえずりも聞こえる。
環山登山道の中心には、オルドビス紀のツンドラがあり、うっそうとしたヒノキ林は地面も木々も厚いコケに覆われて音を吸収し、自然のサウンドステージとなっている。神秘に満ちた霧の中、聞こえるのは自らの呼吸だけで、まるで天地の万物とつながったように感じる。ここが自分にとっての「1平方インチの静寂」だった。范欽慧はこのツンドラを、静寂に耳を傾ける聖地、クワイエット‧トレイルにしようと考えた。
范欽慧はほぼ毎月太平山に通い、翠峰湖環山登山道の、異なる季節、異なる時刻の音を録音した。そして音響生態学の専門家や芸術家、スピリチュアルな仕事をする人など、さまざまな方面の友人を誘って異なる視点での理解を求めた。
サウンドスケープという概念は一般に馴染みがない。そこで范欽慧は願掛けした石を携えてイタリアや日本にも赴き、世界の専門家たちがどのような視点で音や自然を守ろうとしているのか学ぼうとした。そうして2015年、范欽慧は考えを同じくする仲間と台湾声景協会を設立、サウンドスケープ保護の推進や公的機関との対話を目指した。2018年、林務局羅東林区管理処の企画により、台湾初のクワイエット‧トレイルが翠峰湖環山登山道でスタートし、「騒がず、コケ類を踏まない」というクワイエット‧トレイル利用規約が定められた。そして、あの願掛け石は、このクワイエット‧トレイルのシンボルとなった。