
新北市の中和にある華新街に足を踏み入れた途端、何か結界のようなものを越えたような気分になる。規格の統一された商店の看板には漢字とミャンマー語の文字が並び、レモンやカレーの匂いが漂ってくる。店に売られているのはローゼルの葉や「酸木瓜(ムベの仲間の果実)」、青菜の漬物など、珍しい東南アジアの果物や食材だ。通りはいつもにぎわい、商店の軒下に並べられたテーブルにも人の姿が絶えない。
「ミンガラーバー(こんにちは)」とミャンマー語で挨拶し、その風景に溶け込んでみた。
中和・永和両地区には韓国華僑や大陳島からの移住者、金門出身者など多様な人々が暮らすが、ミャンマー華僑の最も多い地域でもある。台湾のミャンマー華僑14万人のうち、中和と永和の在住者が4万人、その多くが華新街に住む。
台北MRT中和新蘆線終点の南勢角駅で下車して興南路を進むと華新街に着く。500メートルほどの通りの入口には「南洋観光美食街」と書いてあるが、多くの人はここを「ミャンマー街」と呼ぶ。40軒余りの商店にはミャンマー料理のほか、雲南シャン族、インド、タイ、香港などの料理が売られ、多様な文化がひしめきあう。

満席になった軒下のテーブルではにぎやかに会話が弾む。華新街の日常の風景だ。
ミャンマーのミルクティー
パリにはカフェ、中国には茶館があるが、ミャンマーにはミルクティー店がある。「ミルクティーはミャンマーの社交道具です」と言うのは華新街育ち、ミャンマー華僑2世の楊万利だ。華新街について知りたければ、ミルクティーから始めるといいと言う。
ミャンマー華僑にとってミルクティーは1日も欠かせない必需品で、ミルクティー店は社交や憩いの場になっている。「台湾人はオフィスで商談をまとめるが、ミャンマー華僑はそれをミルクティー店で行う」と言う人がいるほどだ。
ミャンマー華僑の集まる華新街には6軒のミルクティー専門店があり、飲食店でもほぼ必ずミルクティーを出す。
1杯のミルクティーからミャンマーの複雑な歴史を知ることもできる。かつての統治国イギリスは、現在のミャンマーとインドを合わせた領域を「イギリス領インド」とし、多くのミャンマー人がインドにミルクティーを持ち込んだため、ミャンマーのミルクティーはインド・ミルクティ—とも呼ばれるようになった。
しかもミャンマーのミルクティーは独特に変化した。インドのミルクティーは香辛料が使われるが、ミャンマー人はそれを嫌った。また牛乳が入手しにくかったため、クリーミングパウダーや練乳を用いた。というわけで、たった1杯のミルクティーに、ミャンマーの歴史と多民族の文化背景が凝縮されている。

練乳をかけたインドのチャパティにミャンマー風のミルクティを合わせるのが、ここのミャンマー華僑定番の朝食だ。
店名の持つコード
華新街周辺に住むミャンマー華僑の多くが労働者でシフト制勤務のため、この辺りの飲食店は一日中にぎわう。そのうちの「李園清真小吃」に入ってみた。午前10時だが多くの客がいて、たいていチャパティーとミャンマー・ミルクティーを注文している。これで1日が始まる。
我々とおしゃべりを始めたお年寄りが「1962年がターニングポイントだった」と教えてくれた。その年、ネ・ウィン将軍による軍事政権が始まると、華人経営の商店は国有化され、華人向けの新聞や学校も閉鎖されるなど、外国人に風当たりのきつい政策が次々と打ち出された。
同化政策を嫌い、次世代の将来のことも考えた華僑は次々と海外移住を始めた。中国、インドネシア、マレーシア、アメリカ、台湾などが移住先で、そのうち台湾への移住が最も多かった。
桃園の龍岡や南投の清境には戦後に雲南との国境地帯から撤退してきた軍人とその家族の住む地区があるが、そうした地域に特有の愛国的な雰囲気は華新街にはあまりない。なぜならミャンマー華僑はミャンマーの主流社会で生存するために現地の文化や習慣に深く馴染んでいたため、華新街もミャンマー文化がむしろ濃厚なのだ。
移住には故郷を離れるつらさだけでなく、新たな生活習慣に適応し難いという問題があり、食習慣もそのうちの一つだ。世界中で華僑が中華料理店を開いてチャイナタウンが生まれたように、40年前、2軒の店が華新街で簡単なミャンマー料理を売り始めると華僑が列を作るようになり、それがやがてミャンマー街へと発展した。
商店街の看板を詳しく見ていくと、店名はミャンマーの地名と料理系統の組み合わせになっている。雲南シャン料理と香港飲茶、インド軽食とタイ料理というように、店の主人の出身地と、ミャンマーにある多様な食文化の組み合わせを表すコードとなっているのだ。中国、タイ、ラオスなどと国境を接するミャンマーは100以上の民族を抱えるほか、雲南、福建、広東からの華人や、イスラム教を信じるインド系住民もいる。
初めて華新街を訪れた人はいろいろな国の料理が集まった通りだと感じるだけだろうが、歴史の奔流の中でミャンマー華僑が歩んできたそれぞれの物語が、どの店にも秘められている。

地元出身のミャンマー華僑で華新街商圏発展協会の理事長を務める張標材さんが、このユニークで美しい台北の一角を案内してくれた。
ミャンマーから帰った人
華新街には「ミャンマピャン」という言葉がある。ミャンマー語で「ミャンマーから帰った人」と言う意味だ。華人として台湾に来ることを一種の「帰国」と見なし、自分たちを「ミャンマーから帰国した華僑」と呼んだのだ。
どのミャンマー華僑にも辛苦をなめた非凡な人生がある。台湾に来て30年余り、中華民国ミャンマー帰僑協会の元副理事長でもある簡明有は「李園清真小吃」で彼の物語を話してくれた。
ミャンマーのミッチーナーで育った彼の本籍地は雲南。「天は三日と晴れず、地は三里と平らでない」と言われる雲南は農耕に適さず、国境の接しているミャンマーとの交易が発達していた。
簡明有の一族も現在のミャンマー中部の国境で商いをし、ミッチーナーに財産を蓄え、彼の父の代に雲南から移住した。
簡明有は幼い頃、カチン族とタイ族が主に住む村で暮らし、家では雲南語を話していた。小学校でミャンマー語を学び、中学はヤンゴンの華語学校へ進学、台湾の教材を使っていた。高校卒業後に台湾留学を申請して政治大学辺境政治学科(現在の民族学科)に合格した。だが当時のミャンマーは軍事政権による鎖国政策が行われ、台湾に来ることは2度とミャンマーに戻れないことを意味した。それで母親は長男の簡明有が出国できないようにパスポートを隠してしまったという。
簡明有のミャンマー語は中国語ほどうまくなかったが、台湾に行けなくなった彼はヤンゴン大学ミャンマー文学科に入学した。幼い頃に村で多民族に接し、多様なエスニックや文化、言語に通じており、それは常に彼の武器となった。
1981年にやっと台湾に移住した彼は、公務員試験に合格し、20年余り国父紀念館で外国からの来賓の接待役を務めた。彼にはうってつけの仕事で、「クリントン氏やサッチャー夫人、ゴルバチョフ氏を接待したことがあります」と言う。

発酵茶葉の炒飯、カレー、魚スープの麺など、本格的なミャンマーの軽食類は、香りがよく、味がしっかりしていて食が進む。
ミャンマー街にようこそ
台湾政府による近年の「新南向政策」によって台湾人の目も東南アジアに向くようになり、ミャンマー華僑も注目されるようになった。「新南向政策で近年は移住者も増え、我々も彼らと同じ『新住民』だと思っている人もいますが、実はもう数10年も台湾にいるのですから『老住民』ですよね」と在台30年以上になる、華新街商圏発展協会理事長の張標材は苦笑する。
張標材の案内で興南路と華新街の角にある「緬甸小吃店」に入った。東南アジアのスイーツを売る店で、当然ながらミルクティーも注文した。地元の人の説明で、ミャンマー・ミルクティーにも店によってミルクやシロップの加減にこだわりがあり、店主の自慢の作だということを知った。
ミャンマーは宗教の盛んな国であることから、華新街には40年も前にお寺が建てられ、今では華新街一帯に五つの寺や廟がある。信心深いミャンマー華僑は三峡にもお寺を建造し、「パゴダの国」と呼ばれるミャンマーさながら金色のパゴダも建てている。我々がミルクティーを飲んでいる最中にも托鉢の僧侶が通り過ぎて行った。
張標材によれば、4月には水掛け祭り、10~11月には灯祭りと、ミャンマーの伝統行事を華新街でも行い、毎年にぎわっている。
多くのすばらしい人や物を秘めたこの通りで、ミャンマー華僑の勇気や温かさにふれると同時に、多様な文化を受け入れる台湾社会の能力をも再認識できるだろう。


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市場の傍らにあるミャンマー華僑が経営する日用品店には、珍しい香辛料や調味料が並んでいる。
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